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女子アメフト界のレジェンド、ベティ鈴木が米女子アメフトの殿堂入り!

三尾圭スポーツフォトジャーナリスト
米女子アメフトの殿堂入りを果たした「ベティ」こと鈴木弘子(三尾圭撮影)

 アメリカのスポーツ界には「レジェンド」の称号を授けられた2人のスズキが存在する。

 一人目はメジャーリーグで19年間プレーして、45歳だった今春に引退をしたイチローこと鈴木一朗。

 もう一人は米女子アメリカンフットボールで20年間プレーして、54歳で今年引退を発表したベティこと鈴木弘子だ。

 女子アメリカンフットボールの第一人者、「ベティ」のニックネームで愛される鈴木弘子が米女子アメリカンフットボールの殿堂入りを果たして、12月6日(日本時間7日)にネバダ州ラスベガスで行われた殿堂入り記念式典に参加した。

 東京都浅草で生まれ育った鈴木がアメフトと出会ったのは30歳のとき。新しい挑戦を探していたときに知人からアメフトを紹介され「それまでアメフトの試合を観たこともなく、初めて観た試合が自分が出場した試合だった」と笑う。

 鈴木のアスリート能力はアメフトの壁を超えて、日本国内でもトップクラス。1996年にはフジテレビ系列で放映され、SMAPがレギュラー出演していた”肉体派バラエティ番組”の「BANG!BANG!BANG!」のグラディエーターに抜擢され、アームレスリングの日本王者や、女子レスリングの世界王者と一緒に大暴れしていた。

 アメフトでは女子チーム「レディコング」の主力として活躍して、数年後にはオーナー兼任選手に就任。当時の日本には女子アメフトチームが2チームしかなく、試合は年に2、3回だけ。

 「同じチーム相手に連勝を続けて、物足りなさを感じ始めていたときに、深夜のテレビ番組でアメリカの女子リーグの存在を知った」

 アメフトを始めて5年目。日本で敵なし状態だった鈴木は、新たな挑戦を求めてアメリカに旅立った。

 アメリカにつてがある訳でもなく、普及し始めたばかりのインターネットで情報を集めるが最低限の情報しか入ってこない。それでも、トライアウトの日程と場所だけを頼りに、鈴木はアトランタ行きの飛行機に乗った。テレビで米女子アメフトの存在を知ってから僅か5日後のことだった。

日本で5年、アメリカで20年にもわたってプレーした鈴木弘子のアメフト人生は荒波にもまれたものだったが、レジェンドとして日米のアメフト史に刻まれた(三尾圭撮影)
日本で5年、アメリカで20年にもわたってプレーした鈴木弘子のアメフト人生は荒波にもまれたものだったが、レジェンドとして日米のアメフト史に刻まれた(三尾圭撮影)

 トライアウトに合格した鈴木は、「日本人初のプロ・アメフト選手」として日米のマスコミから一躍脚光を浴びる存在となる。

 35歳でプロ・デビューを果たした鈴木は日本から最も遠いアメリカの州、フロリダ州にあるデイトナビーチ・バラクーダスに加入。英語も分からない中、いきなりチームに放り込まれたが、チームメートたちは日本から単身でやってきた鈴木を家族の一員として受け入れてくれた。

 体重60キロとラインの中では小柄だった鈴木だが、テクニックとスピードを駆使して100キロ以上の相手選手を翻弄。日本で培った高いフットボールIQでラインのリーダー的存在となり、オフェンシブラインを牽引。

 イチローと同じようにアメリカ移籍1年目からオールスター戦に先発選手として選ばれ、チームの地区優勝の原動力となった。

倍以上のサイズがある大柄の選手相手にスピードとテクニックで圧倒するベティ鈴木(三尾圭撮影)
倍以上のサイズがある大柄の選手相手にスピードとテクニックで圧倒するベティ鈴木(三尾圭撮影)

 

 翌年はアリゾナ・カリエンテに移籍して、移籍2年目にはリーグ・ファイナルまで勝ち進みながらも準優勝に終わる。そこから、フィラデルフィア・フェニックス、ロングビーチ・アフターショック、南カリフォルニア・スコーピオンズ、アンティロップバレー・アタック、ロサンゼルス・アマゾンズ、カリフォルニア・クエイク、サンディエゴ・サージ、パシフィック・ウォリアーズ、サンディエゴ・レベリオンと移籍を繰り返した。

 「優勝をしたい」と強く願う鈴木と、「優秀な選手を補強したい」という多くの監督の願いが重なり、彼女は次から次にチームを移り変わった。

 それでも優勝できないのがアメリカンフットボール。超一流の選手であっても、個人能力だけではアメフトの試合に勝てない。個の力よりも組織力が問われるのがアメフトだ。

 「優勝したい」との鈴木の思いは、彼女をアメリカ代表チームのメンバーにまでしてしまった。

 2013年の世界選手権に向けてのアメリカ代表チームに日本人ながら選出される。最終的にはアメリカ国籍取得が間に合わずに、代表チーム入りは叶わなかったが、鈴木の優勝にかける強い思いが伝わってくる。

アメリカには約8000人の女子アメリカンフットボール選手がいるが、その中でも鈴木の能力はトップクラスだ(三尾圭撮影)
アメリカには約8000人の女子アメリカンフットボール選手がいるが、その中でも鈴木の能力はトップクラスだ(三尾圭撮影)

 念願の優勝を果たしたのは、アメリカに来てから13年目、47歳のシーズンだった。

 女子アメリカンフットボールの歴史に刻まれる強豪チームを結成したサンディエゴ・サージは圧倒的な強さで頂点に立ったが、悲願の優勝を成し遂げた鈴木の心は満たされなかった。

 「私はチームの駒の1つでしかなく、私がいなくてもチームは優勝できた。完成されたチームではなく、優勝できるチームを1から作っていきたい」

 2016年にはパシフィック・ウォリアーズのオーナー兼任選手に就任して、1からのチーム作りに挑戦。「3年でリーグ・チャンピオン」を目標にしたが、個性豊かでアクの強い選手たちをまとめるのは想像以上に大変だった。

悲願の優勝を成し遂げたサンディエゴ・サージ時代の鈴木弘子(三尾圭撮影)
悲願の優勝を成し遂げたサンディエゴ・サージ時代の鈴木弘子(三尾圭撮影)

 50歳を過ぎてからも「体力の衰えは感じない」と言い切っていたが、今年のシーズンを最後についに現役引退を決意。

 「試合に出るだけ、試合に勝つだけであれば、まだまだプレーできるけど、優勝しなければプレーする意味がない。殿堂入りで、引退する理由ができた。アメフト人生を幕引きできるきっかけがなかったけど、殿堂入りで私のアメフト人生を終われるのは本当に幸せ」

 世界的なファッションデザイナーのタダシ・ショージから殿堂入りのお祝いとしてプレゼントされたきらびやかなドレスを着用したベティが、波乱万丈のアメフト人生を振り返りながら、関わってくれた全ての人に感謝の言葉を述べると、殿堂入り式典の会場内にいた人々は全員が起立してスタンディングオベーションでレジェンドを労った。この夜唯一のスタンディングオベーションを見て、英語を話せずに単身渡米したベティが本当にアメリカのフットボール関係者から愛され、尊敬されていることが伝わってきた。

 殿堂の選考委員会の一人は選考の理由をこう語った。

「ベティは選手としての能力と実績だけでも殿堂入りに相応しいが、異国から単身渡米して、このスポーツを世界に発信した先駆者でもある」 

米女子アメリカンフットボールの殿堂入り式典で表彰されたメンバーたち(三尾圭撮影)
米女子アメリカンフットボールの殿堂入り式典で表彰されたメンバーたち(三尾圭撮影)
スポーツフォトジャーナリスト

東京都港区六本木出身。写真家と記者の二刀流として、オリンピック、NFLスーパーボウル、NFLプロボウル、NBAファイナル、NBAオールスター、MLBワールドシリーズ、MLBオールスター、NHLスタンリーカップ・ファイナル、NHLオールスター、WBC決勝戦、UFC、ストライクフォース、WWEレッスルマニア、全米オープンゴルフ、全米競泳などを取材。全米中を飛び回り、MLBは全30球団本拠地制覇、NBAは29球団、NFLも24球団の本拠地を訪れた。Sportsshooter、全米野球写真家協会、全米バスケットボール記者協会、全米スポーツメディア協会会員、米国大手写真通信社契約フォトグラファー。

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