【京都市】東山区 「日本一の大天狗」と呼ばれた『後白河法皇御陵』で平安後期の歴史を感じる!
昨年は、大河ドラマでもその名役ぶりに、様々な思いを馳せる人も多い「後白河法皇」。源頼朝に「日本一の大天狗」と揶揄された方ですね。
京都には、その「後白河法皇」ゆかりの地が多くあります。
また「後白河法皇」のお墓である御陵が、観光名所でもある「三十三間堂」のすぐそばにあるのをご存知でしょうか?
過去記事参照→ 三十三間堂の通し矢「大的大会」と「楊枝(やなぎ)のお加持(楊枝浄水供結願大法要)」
後白河天皇の御陵は、後白河院法華堂・蓮華王院法華堂・法住寺法華堂・法住寺御影堂などと呼ばれ、妙法院歴代門跡法親王の墓とともに「法住寺」が江戸時代末期まで存続し、守護してきました。
過去記事参照→ 後白河法皇ゆかりの『法住寺』で無病息災「大根焚き」&後白河法皇御尊像の特別御開扉♪
「後白河法皇」は、平安時代後期の第77代の天皇で、鳥羽天皇の皇子として生まれ、波乱の平安時代を生き抜き、わずか3年という短い在位のあと、法皇になってからの30余年は、院政により王朝権力の復興・強化に専念してきた方です。
源平の戦乱に巻き込まれ、平氏と源氏を両天秤にかけ長期政権を握った実力派法皇ですが、其の間に何度も幽閉・脱出を繰り返して来られ、建久三年(1192)3月13日に66歳で崩御されました。
天皇になるはずじゃなかった第四皇子として生まれてきた「後白河法皇」は、歌(今様(流行歌))を詠むのが大好きだったそう。
「平家物語」や「源平合戦(治承・寿永の乱)」によると平家を滅亡、その上、牛若丸と呼ばれた源義経を悲劇に追いやった人としても知られますが、実は、生涯にわたり34回も熊野詣をしたり、京都に熊野三大社(熊野本宮大社、熊野速玉神社、熊野那智大社)を勧請した「京都三熊野」を開基たりと、信心深い人だったことがわかります。
「哲学の道」にある「熊野若王子神社」は、「熊野那智大社」にあたり、後白河法皇が熊野詣の起点とした所だと言われています。熊野と同様に八咫烏のお札やお守りがあることから道標の神様であることがわかります。
兄である悲劇のストーリーを持つ「崇徳上皇」と「後白河天皇」が皇位を争う「保元の乱」が勃発し、勝ったことから「後白河天皇」は政治力を発揮します。
法皇になってからは政治力もあり、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽の5代にわたって院政を行ってきました。
「後白河法皇」の死因は、糖尿病と言われてます。
平安末期という激動の時代を院政することで生き抜いた「後白河法皇」。3月13日は崩御された日、御陵に手を合わせたく思います。
後白河法皇 御陵
京都府京都市東山区三十三間堂廻リ