【九州三国志】幼少時代と家督継承!若き城主が背負った重責
天文13年2月8日、相良晴広の嫡男として生を受けた万満丸(幼名)は、幼少の頃から波乱の運命にさらされておりました。
天文18年、兄弟間の争いを避けるため、父晴広により世子として公に認められるも、その平穏は長く続きませんでした。
弘治元年、父の急逝によりわずか12歳で家督を継ぎ、人吉城主となったのです。
しかし若き城主を支えたのは、実権を握る外祖父・上村頼興でした。
彼の後見のもと、万満丸は外交や領地問題に直面します。
天草氏との交渉や肥後守護への裁定依頼など、幼いながらも冷静な判断を見せ、家臣たちと共に懸命に家を守り抜いたのです。
元服後、頼房と名乗った彼はさらなる挑戦に臨みます。
薩摩国大口の併合という野望に向けた策略は、菱刈氏との縁組を巧みに利用したものでした。
病床の大口城主を見計らった計略によって城を掌握し、その後の防備を万全に固めます。
同時に天草での騒乱にも対応し、内外の危機を乗り越える姿勢は若き主君ながらも逞しさを感じさせます。
頼房が抱いた理想は、戦乱を越えて相良家の安泰を築くこと。
その重責を胸に、彼の物語はまだ始まったばかりでございました。