原発は現代の荒ぶる神。時間とお金をかけて埋葬すべきだ
●今朝の100円ニュース:原子力PR館 処分進まず(朝日新聞)
思想家の内田樹氏の文章が好きでときどき読んでいる。労働や家族、礼儀といった普遍的なテーマを人類学や哲学の知見を紐解きながら「こういうものだ」と主張しているので、たいてい納得してしまう。
彼の文章で、葬礼の意義は死者が現世に害悪を吐き出さないように鎮めること、といった意味のことが書かれていた。オカルト的な話ではなく、正しく丁寧に葬礼をしないと長い時間をかけて祟りのような現象が起きるらしい。
誰かが現世からいなくなることは生きている人たちに影響を与えずにはいられない。「ようやく死んでくれた」とホッとする人もいれば、深い悲しみや後悔に陥る人もいるだろう。様々に渦巻く情念をとりあえず集約して死者と向き合う場所と時間が葬礼なのだと思う。
お通夜や葬式に出席できなければお墓参りをすればいい。何もしないと死者への想いにとりつかれ、わだかまりの多い人生を歩むことになってしまう。周囲の人にも実害を与える。それが祟りなのだ。
生きている「死者」たちが害を及ぼすケースもある。いわゆる老害だ。いつまでも組織から離れずに影響力を行使しようとする老人たちは、正しいタイミングと方法で見送られなかった人の成れの果てだと思う。
先日訪れた会社では、数年前に社長に就任した女性が大変な手間暇をかけて定年退職者への送別を行っていた。相手は創業当時からその会社で働いてきたエネルギッシュな管理職女性。65歳といってもまだまだ若い。しかし、組織の新陳代謝を図るためには定年で辞めてもらうことが必要だと社長は判断したのだろう。
その代わりに、社長自らが先頭に立って心のこもった送別会と記念の品を作り上げた。感謝の気持ちを伝えると同時に、「どうか心安らかに立ち去ってください」という願いも込めたのだと感じる。
今朝の朝日新聞によると、原子力推進のPR館の処分が進まず、全国の9施設で年間2億円を超える維持費がかかっているという。記事は「本来の役目を終えた施設に税金の投入が続いている状態だ」と断じていた。PR館で働いていた従業員やそれが支えになっていた自治体への配慮は感じられない内容だった。
僕はPR館に限らず原子力発電全体が「本来の役目を終えた」と感じている。2年前は「電力が足りなくなるからすぐに廃止するのは無理だ」と思っていたけれど、全機が停止していても停電などの深刻な問題にはなっていない。福嶋第一原発のように再び「想定外」の災害に見舞われる危険を考えると、原発はなくしていく方向に進むべきだと思う。
でも、それには正しい葬礼が必要だ。原発のおかげで安くて安定的な電力を享受して生活や産業が発展してきたことを忘れてはいけない。原発に情熱を注いで暮らしてきた人たちも膨大な数に及ぶ。いまだにパワフルなエリート層も少なくない。彼らの努力に敬意を表し、その喪失感や悔しさを時間とお金をかけて鎮めなければならない。
原発は現代の荒ぶる神だと思う。丁寧に埋葬しなければ、とてつもない祟りがある気がする。