公立進学校を11度の甲子園へ! 「情熱の人」郡山の名将・森本監督逝く
昭和から平成の高校野球を彩った名将・森本達幸さん(享年88=タイトル写真)が逝った。郡山(奈良)を平成21(2009)年の夏まで47年間、率いた。その間に11度の甲子園出場(春6、夏5)を果たし、11勝を挙げている。驚くような数字ではないが、入学が容易でない県立の進学校が甲子園に出場し、勝つのは、並大抵のことではない。すべては森本監督の「情熱」がもたらしたものと断言する。
高校時代、あと一歩で甲子園逃す
森本監督は郡山入学直後から左腕投手として頭角を現し、2度の奈良大会制覇を果たしたが、和歌山との紀和大会で敗れ、甲子園出場を逃した。卒業後に進んだ関大では大学選手権で優勝し、社会人の京都大丸でも活躍したが、高校時代の無念の思いが、母校を率いる原動力になったと話す。バッティングセンター経営の傍ら、母校のグラウンドで選手たちと汗を流す日々は、半世紀近くにも及んだ。
中学生にボールを贈り、毎日の激励
森本監督は教員ではない。しかし、自らも進学校で学んだ経験から「1に勉強、2にマナー、3に野球」を徹底し、グラウンド外での生活を重視した。中学野球部に有望な選手がいると「この子の成績は?」と尋ねる。入学にはかなりの学力が必要で、学業成績が足りない生徒には声をかけない。しかし、ひとたび「この子は」と目をつけた選手に出会うと、郡山の校章が入ったボールを渡し「勉強を頑張れ。苦しくなったらこのボールを見るんやぞ」と励ました。深夜に「頑張ってるか」と、毎日のように電話することもあったようだ。この「情熱」は最後まで衰えることはなかった。
「情に厚かった」森本監督
情に厚い森本監督の人柄を表すエピソードも聞かせてもらった。センバツ出場時のこと。ある選手が秋の大会後「自分は体力がなく、メンバー入りできないのは大きな体に産んでくれなかった親のせいだ」みたいなことを言った。これを聞いた森本監督は烈火のごとく怒り、「自分の努力不足を棚に上げて、何ということを言うんや。毎朝、お母さんがどんな気持ちでお弁当を作ってくれてるか、考えたことがあるんか」と叱責した。以来、その選手は人が変わったように練習し、甲子園のベンチ入りをつかんだ。これは昭和50年代の話だが、平成に入ってからは過保護な親が増えたという。「これでは社会に出ても通用しませんよ」と親を呼んで叱ることもあった。
天理と智弁の高い壁
森本監督が就任した昭和30~40年代の奈良は、古豪の天理に加え、新鋭の智弁学園も台頭し、郡山との「3強」を形成していた。50年代に入ると、技術、体力で勝る天理と智弁に歯が立たなくなり「両方を倒すのは無理」と本音を漏らしたことも。「決勝まで勝ち残っても、連戦で疲れているところへ容赦なく猛攻を仕掛けられ、かわいそうだった」。それでもライバルに対しては、牙をむき続けた。
甲子園最高成績はPLなどを破った52年前の4強
甲子園では自身3度目の采配となった昭和46(1971)年夏に、PL学園(大阪)や銚子商(東関東・千葉)を倒して4強入りしたのが最高成績。前年秋の近畿大会優勝校として乗り込んだ平成10(1998)年センバツでは2勝して8強入りしたが、横浜(神奈川)の松坂大輔(西武ほか)に完封負けした。2年後の夏には奈良代表となったが、初戦で中京大中京(愛知)に0-12で完敗。「11回出て初めて、郡山らしい試合ができなかった」と悔しがった。これが唯一の心残りで、現状、郡山の最後の甲子園である。
「ノックが打てなくなったら終わり」と勇退
その後も秋の近畿大会で8強入りするなど甲子園出場のチャンスはあったが、70歳を超えてからは「腰が痛くてノックがしんどくなってきた。ノックを打てなくなったら辞めなあかん」と話し、半世紀近い指導歴にピリオドを打つことになった。
最後の試合は前述の平成21年7月25日、天理との奈良大会決勝だった。夏の大会では常に郡山の前に立ちはだかった宿敵は、この試合でも容赦なかった。初回に先制するもすかさず天理が逆転。豪雨による1時間20分の中断を経ても流れを変えられず、ともに14安打を放ちながら、2-7で完敗を喫した。
天理監督の気配りに涙
サバサバした表情で引き揚げてきた森本監督(タイトル写真)は、柔和な表情で記者の質問に答えていたが、天理の森川芳夫監督(当時)がウイニングボールを持って現れ、「これは監督さんのものです」と手渡すと、森本監督の目から涙が溢れた。
「さすがは森川君、スポーツマンですね。嬉しかった。天理はあっぱれなチーム」とライバルへの賛辞を惜しまなかった。さらに、家族のことに質問が及ぶと「家を出る時、玄関で見送ってくれた。普段は表に出ることを嫌がる女房がね。これまで寂しい思いをさせ、迷惑をかけた」と話すと、再び涙がこぼれた。監督退任後は、妻の明美さんと幸せな日々を送ったことは想像に難くない。
「卒業生は財産」と胸を張る
投手出身らしく、バッテリーの指導、育成には定評があった。試合中も「困ったらベンチを見ろ」と言い聞かせ、ピンチの場面では自らサインを出して、窮地を脱してきた。勉強とマナーに重きを置く指導でメリハリのある高校生活を送った卒業生は、大学、社会人、プロだけでなく、指導者として活躍する人も少なくない。この日も多くのOBが、恩師を労おうと1時間以上も待っていた。「卒業生は財産。これからは一人の卒業生として郡山を見守りたい」と話した森本監督。退任後は「名誉監督」として後輩たちを激励し続けたが、母校の甲子園出場を見ることなく天国へ旅立った。
天国の森本監督へ恩返しを!
筆者も同姓のよしみで随分、かわいがっていただいた。試合や練習取材だけでなく、放送のゲスト解説でも貴重な話を聞いて、勉強させてもらった。
最後の試合後、テレビのインタビューにも答えていただき、少しは恩返しできたかなと思っている。郡山は7月16日、十津川を相手に今夏の初戦を迎える。同じブロックには智弁が入っていて、2つ勝てば準々決勝で当たる組み合わせとなった。今度は後輩たちが、森本監督に恩返しする番だ。