高校野球秋の陣で優勝の明徳義塾監督・馬淵史郎という男(その2)
そもそも阿部企業の属する兵庫県には、社会人の強豪がわんさといる。「けたぐりでもネコだましでもやらんと」(馬淵)勝負になりはしない。だが、阿部企業野球部復活の1期生であり、その後明徳の野球部長を長く務めた宮岡清治はいう。
「当時は、監督が一番つらい仕事をしていたからね。上がしんどいことをしたら、下は無言でついていく」
たとえば冬の雨の日、夜中の道路工事の交通整理。警備会社でもっともつらいといわれるその仕事を、馬淵は黙々とこなしていたという。やがて地道な選手勧誘が徐々に実りはじめ、集中的な練習で力を蓄えていく。そして1986年には都市対抗県予選を突破し、本大会でもベスト8に。秋の日本選手権でも準優勝を飾るまでになると、「もう格好はついたやろ。社長が選手起用に口を出してくるのも気に食わん」と、準優勝を置きみやげに、あっさりと監督職を退いた。馬淵はいう。
「ワシはね、高校時代から"コト起こしの史郎“いわれてたんよ」
気に入らないとなったら事なかれですまさず、あえてやっかいな道を選んでしまう。ようやく結果を残したところで、社会人野球の監督という座を投げ出すとは。コト起こしの性分は、31歳になっていても変わらないらしい。
"コト起こしの史郎"
故郷に戻り、先輩が支社長をしている縁で、宅配便の運転手をしているときだ。またも、野球の神が巡らした網に引っかかる。同じ田内氏の教え子というつながりから、当時の明徳義塾監督・竹内茂夫氏に誘われ、練習の見学に出かけるのだ。阿部企業の監督時代に、明徳から選手を採用していたから、断るのも義理を欠く。馬淵は、その日を鮮明に覚えているという。
「いまでも覚えとるわ。87年5月13日だと思う。車ひとつ、手ぶらで明徳に来たら、"もう帰らんでええ、テレビも布団も練習のユニフォームもあるから、明日から練習を手伝ってくれ"といわれて、そのまま居着いたんよ」
どうも、野球から離れられないように生まれついているらしい。
明徳義塾の野球環境は、社会人時代とは180度違っていた。専用グラウンドに寮があり、高知県内にとどまらずおもに西日本各地から優秀な素材が集まってくる。コーチを経て、90年8月に監督に就任すると馬淵は91、92年と連続して夏の甲子園に出場した。社会人時代と違い、堂々の横綱である。けたぐりもネコだましも必要ない。弱小社会人チームを育てあげた自負もある。高校野球は、簡単に勝てる……そうのぼせ上がっていた。
冷水をぶっかけられたのは、92年の夏。日本中を騒然とさせた星稜・松井秀喜の5打席連続敬遠だ。(続く)