世界王者を支える異色トレーナー 野木丈司の壮絶ボクシング人生(前編)
ノックアウトの山を築いて急上昇中のボクサーがいる。WBC世界フライ級チャンピオンの比嘉大吾(白井・具志堅スポーツ)は、2月4日の試合で同王座の2度目の防衛を成功させるとともに、連続KOの日本タイ記録となる15連続KOをマークした。
教え子の比嘉が15連続KOの日本タイ記録をマーク
大記録達成の陰に敏腕トレーナーあり。22歳の比嘉をデビューからサポートするのは57歳の野木丈司だ。日本ボクシングコミッションが授与する2017年のトレーナー賞にも輝いた野木は、フィジカルトレーニングを重視する国内では異色の存在にして、いまや日本を代表するボクシング・トレーナーの一人と言えるだろう。本稿はそんな野木の波乱万丈なボクシング人生の物語である。
野木がマラソンのオリンピック金メダリスト、高橋尚子を育てた名伯楽、小出義雄の教え子であることをご存じだろうか。野木は中学時代から陸上でならし、千葉県立佐倉高で若き小出の薫陶を受けた。
3年生で全国高校駅伝大会に出場。これが小出にとっては悲願の全国大会初出場であり、のちの高橋の金メダル獲得と比べても、このときのうれしさは格別だった、と自著で振り返っている。1978年のことだった。
高校時代は陸上の全国選手、小出義雄氏の薫陶受ける
この大会で野木は1区を走り、区間賞に輝く。その実力は実業団や大学から勧誘の手が伸びるほどだったが、区間賞ランナーはあっさりと陸上に別れを告げ、プロボクサーになった。野木は当時の心境を次のように語る。
「中学生のときに、世界チャンピオンだった大場政夫さんにあこがれて、将来はプロボクサーになろうと決めていたんです。陸上をがんばったのは、ボクシングにプラスになると思ったから。高校を卒業したらプロボクサーになる、という考えは揺らぎませんでしたね」
高校卒業と同時にミカドジムに入門。名門、協栄ジムに間借りした小さなジムだったが、あこがれのプロボクサーとして第一歩を踏み出した若者の心は希望に満ちていた。
高校卒業と同時にプロ入り、ジム移籍問題で暗転
「アパートを借りて、コーヒー専門店で働き、ボクシングの練習をする。充実してましたね。プロ入りして間もないときに、協栄ジムで世界チャンピオンだった具志堅用高さんのキャンプにも連れて行ってもらいました。ボクシングはただのルーキーでも、走るのだけは速かったですから、一緒に走って具志堅を引っ張れと。それはもう夢のようでした」
デビューから3連勝をマークし、モチベーションは高まるばかりだった。どんなに厳しい練習も苦にならなかった。絶対に世界チャンピオンになる。胸に抱いた決意は石のように固かった。
「自分の将来を信じて疑わなかった。それがまさかあんなことが起きるなんて思いもしませんでしたよ…」
きっかけはジム経営に関するトラブルだった。これによりミカドジムは閉鎖に追い込まれ、協栄ジムに吸収される(ミカド契約の選手は協栄契約になる)という方針がジムのトップ同士の話し合いで決定する。
嘘や裏切りが横行…プロ選手生命を絶たれる
ところが、この決定に不満を持つミカドの選手たちは、協栄以外のジムでボクシングを続けようと模索した。これが当時の日本ボクシング界の重鎮、金平正紀・協栄ジム会長(故人)の逆鱗に触れたのだ。協栄に反旗を翻す形となったミカドの選手は戦う場を失った。
「当初は数ヵ月で解決するものと思っていました。それが大いにこじれて長期化した。もうひどい状態でしたよ。嘘や裏切りが横行し、人間の汚い部分というのを嫌というほど味わうことになりました」
時間がたつにつれ、同じように干されたミカドの仲間の中には、協栄に頭を下げ、和解してリングに戻った選手もいた。それが悪いとは思わなかったが、野木はどうしてもそういう気にはなれなかった。先の見えない孤独な戦いに身を投じたのである。
「公園でシャドーボクシングをしたり、区のスポーツセンターで筋トレをしたり。雀荘で働きながら、一人でトレーニングを続けました。負けず嫌いの性格というか、自分に屈するのが嫌だった。ボクシングで成功するという夢をあきらめるのが嫌だったんでしょうね」
孤独なトレーニングを10年間、報われず“生きる屍”と化す
試合のあてもなく、たった一人でトレーニングを続ける。そんな無謀とも言える状態が何と10年以上も続いた。本来であればボクサーとして最も輝くはずだった20代は過ぎ去り、気が付けば32歳になっていた。そしてついに世界チャンピオンという夢をあきらめる日が訪れる。一人でサンドバッグを叩いていたとき、冷たい風がスッとほほをなでたような気がした。
「なぜか、ふと思ったんです。ああ、オレはもう世界チャンピオンにはなれないんだな。もうなれないんだなと…」
野木はトレーニングをやめた。人生に希望と呼べるようなものは一切なくなった。もう、何かに一生懸命になるのはやめようと思った。一生懸命になってはいけないと思った。
それからの5年間を、本人は自らを「生きる屍だった」と表現する。他人に笑顔を見せることはあって、心から笑ったことは一度もなかった。ある転機が訪れるまで、野木丈司という男は死んだも同然だった…。(敬称略、後編に続く)