Yahoo!ニュース

[高校野球]名将にも、駆け出しの時代があった/龍谷大平安・原田英彦監督の場合

楊順行スポーツライター
試合中にかけるメガネがおしゃれな龍谷大平安・原田英彦監督(写真:岡沢克郎/アフロ)

「教え子のみんなが応援に来てくれている。21回、胴上げしてくれ」

 龍谷大平安・原田英彦監督がナインに無茶なお願いをしたのは2014年、センバツで優勝したときの自校のアルプス席前だ。夏は3回の全国制覇がある同校にとって、春は初めての頂点だった。1992年秋、原田が母校の監督に就任してから21年がたっていた。かつてじっくりと話したとき、しみじみとこう語っていたことを思い出す。

負けた後にはファンが乱入……

「監督になって3回目の夏の大会でした。1回戦で負けて球場から帰るとき、ファンにつかまったんです。“1回戦負けとは、どういうこっちゃ。土下座せぇ!”いわれて」

 3回目の夏といえば、入学したばかりの1年生大型左腕・川口知哉(元オリックス)をエースにすえたときだ。成功すればいいが、失敗したら相当な風当たりが予想された。なにしろ平安には、熱狂的なファンが多いのだ。思い出すのは自身の現役時代。最後の78年夏、3回戦で京都商(現京都学園)に敗れると、球場から帰るバスに傘を振り回したファンが乱入して監督を引きずり下ろし、よってたかって3時間ほどつるし上げたシーンを記憶している。

 古豪・平安。27年夏の初出場からいきなり10季連続の出場を果たし、戦前だけで1回の優勝と3回の準優勝がある。戦後、甲子園に行くのは“平安か、キョーショーか”の時代が長く続くが、こと甲子園での実績となると、51年と56年夏に優勝がある平安が圧倒した。もっとも70年代あたりからは甲子園が遠くなり、74年の春夏出場を最後に、75〜94年までの20年間、出場は春夏わずか1回ずつだけだ。長い間おあずけを食わされていれば、可愛さあまって憎さ百倍。熱心な平安ファンが、もどかしさのあまりバスに乱入したのもわかる。自身が平安のファンだという原田だから、そのあたりの機微は百も承知だ。

「私自身も、小学校時代から平安にあこがれ、自分の白いユニフォームの胸に、マジックで"HEIAN"と書いていました。中学時代には、平安の選手が利用するスポーツ屋さんで“平安が使こてるのと同じストッキングください”ゆうて喜んだり、学校の帰りに練習を見学したり。当時エースだった山根(一成)さんの練習ぶりを見て、“さすが平安のエースや”と感激したり。山根さんが1年のとき、西京極球場に応援に行ったんですが、リリーフに出た京都商戦でホームランを打たれて負けてしまったんです。自分のことのように悔しくて、キョーショーが憎かった。だから、“土下座せえ!”ゆう罵声の意味も、ようわかったんです……」

 平安が、エース川口を擁してセンバツでベスト8、夏は準優勝を飾り、県岐阜商を抜いて通算勝利数で3位(現在は2位)になるのは、“土下座せぇ!”から2年後のことだった。

名門の香りがする

 社会人・日本新薬に進み、外野手として都市対抗に10回出場。引退後は社業に専念していた原田に、母校から監督就任の要請があったのは92年秋のことだ。「迷いました。ちょうど仕事が面白くなっているとき。でも、またとないチャンスですし、女房が『野球をしている方が生き生きしている』といってくれて」引き受けた。だが引き受けたはいいものの、「こりゃ、立て直すのは大変やな」と思ったという。ユニフォームの着方、道具への愛着、日常生活、どれひとつとっても、平安野球部のプライドが感じられない。時効とはいえ、ここにはとても書けないような惨状も聞いたことがある。

「改善すべき点が、60いくつありました」

 細かいことまで、うるさいくらいに諭した。口をすっぱくして、平安の伝統を説いた。そんなん、野球強うなるのに関係ないやろ……とソッポを向かれても、根気よく生徒に納得させた。1年がたち、2年が過ぎ、3年目になるころ、ようやく原田監督の考え方が浸透してくる。部室は整然と整頓され、グラウンドはきれいに整備される。グラブやスパイクはつねにピカピカで、ユニフォームの着こなしにもそれらしい格が宿ってきた。その矢先の、1年生・川口知哉での初戦敗退である。

 だが、肚をくくった原田はぶれることなく川口をどっしり育て、97年夏には41年ぶりに決勝に進出するのである。2000年以降は夏7回、春8回の甲子園出場があり、センバツ優勝のほかにも、ベスト8の常連に古豪は復活した。平安愛は、いまだに強い。08年、新年度から龍谷大付属となるため「平安」としての最後の大会であるセンバツでは、鹿児島工との3回戦が15回引き分け再試合になると、「平安として1試合でも多くできることがうれしい」と目を潤ませた。

 甲子園で通算30勝(17敗)は、15位タイにあたる。初めてじっくり話したのは、20年ほど前か。

「松山商さんと試合をやらせてもらったとき、朝7時半に球場に着いたら、もう近隣のおじいちゃんやおばあさんが客席で待っているんですよ。そして僕らが入っていったら、自然に拍手がわいた。試合が終わって一礼するとまた“甲子園で、会おうな!”。ムチャクチャうれしかったですね。そしてまたグラウンドが、なんとゆうかすごくいいニオイがするんです。これが伝統や、名門の香りや……思いました」

 次にお会いしたとき、「読みました。名門の香り……ですね」とニコッと笑ってくれたことを思い出す。

※別のサイトでは、帝京・前田三夫監督https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2020/05/08/___split_22/をはじめ、日大三・小倉全由監督、横浜・渡辺元智元監督もとりあげています。そちらも、ぜひ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

楊順行の最近の記事