【深読み「鎌倉殿の13人」】散々やらかした挙句、悲惨な最期を遂げた源行家
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第19回では、源行家が源義経に挙兵を促した挙句、負けそうになったので逃亡した。これまでの行家のやらかしたことについて、詳しく掘り下げてみよう。
■源行家とは
源行家は、源為義の十男として誕生した。生年不詳。初名は、義盛である。保元の乱後、父が斬首されたので、行家は熊野新宮に潜んで生活した。その際、助けてくれたのが、為義の娘・鳥居禅尼である。鳥居禅尼は、熊野速玉大社(和歌山県新宮市)の有力者だった行範の妻である。
平治元年(1159)に平治の乱が勃発すると、行家は兄の義朝のもとに馳せ参じたが、義朝は平清盛に敗れ、逃亡中に殺された。行家は熊野を目指して逃亡し、以後、約20年にわたって潜伏生活を送った。
治承4年(1180)、「打倒平家」の機運が盛り上がると、行家は八条院の蔵人に任命され、名を行家に改めた。行家は以仁王の「打倒平家」の令旨を手にし、山伏の姿に変装すると、各地の源氏のもとへ令旨を伝達したのである。
■連戦連敗だった源行家
源頼朝は、同じ源氏の面々と協力関係を結ぶことに腐心したが、問題になったのが源行家だ。富士川の戦い後、行家は頼朝に決起を促すが、断られると独自に行動した。
治承5年(1181)、行家は義円(頼朝の弟)とともに墨俣川の戦いで平家と交戦したが、あっけなく敗北を喫した。行家はうまく逃げたが、義円は討ち死にした。
行家は盛んに合戦を勧めるが、自身はほとんどの戦いで惨敗し、実績がほぼ皆無だった。それゆえ、頼朝は行家を頼りにしていない節があり、行家は孤立して転戦していた。しかし、行家には十分な兵力がなかったのだから、勝てる見込みは乏しかったに違いない。
行家は以仁王の令旨を受け、打倒平家に尽力したが、何せ実力が伴わなかった。連戦連敗では説得力がない。むしろ、打倒平家の活動家として、各地で出陣を促すのが得意だったのだろうか。木曽義仲のもとに向かったのも活動の一つだ。
墨俣川の戦いで敗戦後、行家は畿内に出没し、そして北陸道にも姿を見せた。神出鬼没と言えば聞こえはいいが、あまりの無計画さ、節操のなさに、頼朝も辟易としていたかもしれない。平たく言えば、行家を「口先だけの男」と思っていたのかもしれない。
■節操がない行家
最初、行家は頼朝に味方していたが、自分の要求が受け入れられないと、次は木曽義仲と行動をともにした。義仲は頼朝に先んじて入京し、後白河法皇の信任を得ていた。
やがて、義仲は後白河らから見放され、追討の対象となった。寿永3年(1184)1月に義仲が源義経に討たれると、行家は義経と協力するようになった。つまり、行家は打倒平家の立場だったが、行動に一貫性がなく、自身の保身を考えて行動していたのだ。
元暦2年(1185)に平家が滅亡すると、行家は西国で勢力を拡大すべく、再び暗躍していた。頼朝としては、いかに叔父であるとはいえ、もはや看過することができなかった。
行家の追討令が出されたのは、同年8月4日のことだった。むろん、行家は座して死を待つような男ではなく、同じ境遇だった義経と連絡を取り、頼朝に対抗しようとしたのである。
■むすび
行家は義経と結託し、頼朝に叛旗を翻した。すでに後白河から頼朝追討の宣旨を得ていたが、味方となる豪族は乏しかった。同年11月、状況を察した行家らは都落ちしたが、その前途は多難だった。
翌年5月、行家は和泉国で潜伏生活を送っていたが、やがて地元の住民らの通報により、鎌倉幕府により捕縛された。同年5月12日、行家は子の光家・行頼とともに山城国赤井河原(京都市伏見区)で斬首されたのである。