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関ヶ原合戦後、領知配分に頭を悩ませた徳川家康の苦労とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 今や成果主義人事の時代、会社の上層部は昇進、昇格の査定で苦労していることだろう。それは関ヶ原合戦後の徳川家康も同じことで、領知配分に苦労したので、その一端を示すことにしよう。

 慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原合戦後、徳川家康による東軍諸将への領知配分は、家康の侍医・板坂卜斎の『慶長年中卜斎記』に経過が記されている。

 恩賞付与を検討する際は、家康と家臣の井伊直政、本多忠勝らが中心となり、領知配分の原案が作成された。領知配分の原則は軍功が基準とされ、軍功の高い順から、領知を決定する方式とした。ただし、その具体的な作業を示す一次史料は残っていない。

 慶長5年(1600)9月18日付の家康書状(『譜牒余録』)には、小早川秀秋に備前国を与えると書かれており、実際に秀秋は美作もあわせて与えられた。秀秋が土壇場で東軍に味方したことは勝因の一つだったので、その貢献度が高く評価されたのである。

 とはいえ、領知配分は一気呵成に行われなかった。慶長5年(1600)10月15日には、福島正則が備後・安芸の領国と広島城を与えられた(『義演准后日記』)。

 同年10月晦日、榊原康政の家臣・久代景備が下野黒羽城(栃木県大田原市)主の大関資増に送った書状には、国割はまだ半ばであると書かれている(『譜牒余録』)。

 同じ久代景備の書状によると、この時点で次のことが検討されていたことが判明する。

①毛利輝元が領国をすべて返上し、改めて周防・長門の2ヵ国が与えられたこと。
②安芸・備後は、福島正則が拝領したこと。
③細川忠興には30万石のつもりで豊前を与え、不足分は豊後国内で賄うこと。
④山内一豊には、伊予を居城にするよう命じたこと。
⑤島津氏は詫びを入れてきたので、間もなく解決するであろうこと。
⑥東国方面については、直江兼続に使者が派遣されたようなので、これも決着するだろうこと。
⑦前田利長には加賀2郡が遣わされるので、これで加賀一国が領知となること。

 ④は一致しないが(一豊は土佐)、おおむね決定した恩賞配分と一致する。家康は諸将の意向を汲んだりし、かなり苦労したと指摘されている。こうして、家康による領知配分が進められたのである。

主要参考文献

藤井譲治「家康期の領知宛行制」(同『徳川将軍家領知宛行制の研究』思文閣出版、2008年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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