【ウマ娘】メジロラモーヌの軌跡(前編) 天から微笑む2人の魂/病弱な幼少期を乗り越え初の牝馬三冠
1984年、オーナーブリーダーとして名高いメジロ牧場の会長・北野豊吉氏が亡くなった。北野氏は1970年代から80年代にかけて、日本の競馬の発展に大きく貢献したひとりだ。特にシンボリ牧場の代表である和田共弘氏と懇意にしており、共同所有で種牡馬・モガミを導入している。豊吉氏が望んだ「メジロアサマ、メジロティターンに続く父子天皇賞」と「クラシック制覇」は北野ミヤ夫人らファミリーが受け継ぎ、メジロ牧場の経営は継続された。
翌1985年、奥平真治調教師は初めてメジロ牧場を訪れた。縁あってメジロ牧場の馬を預かることになったので、馬を見にきたのだ。ちょうどその日は亡き会長の法事が行われており、多くの人々がメジロ牧場に集まっていた。奥平師は線香をあげ、手を合わせてから馬を見に行った。しかし、その時に1983年生まれの馬たちの多くは入厩先が決まっており、奥平厩舎で預かる候補は残っていた2頭の牝馬しかいなかった。そのうちの1頭は珍しいほど漆黒の馬体をしていた。父は1982年に初年度産駒が生まれ、この世代は2年度目というモガミだ。
「そのころまだ(父の)モガミの評価がわからなかったし、その牝馬に悪い印象はなかったけど、とにかく地味。ずば抜けて良かったとも思わなかった」(奥平師)とその牝馬を評しつつ、預かることを決めた。
■1985年 日本ダービー 優勝馬 シリウスシンボリ(トウショウサミット18着)
1985年5月、日本ダービーを前に奥平師の心中は穏やかではなかった。若き頃から苦楽を共にしてきた主戦・中島啓之騎手が病魔に襲われたからだ。
中島啓之騎手はコーネルランサーで日本ダービー、ストロングエイトで有馬記念を制した人気騎手だった。5月6日のNHK杯を奥平厩舎のトウショウサミットで制して日本ダービーを目標に定めるも、ダービー直前に中島騎手の体調が思わしくないことが判明した。診察を受けた時にはすでに肝臓ガンは末期まで進行していた。それでも、中島騎手は必死の思いで日本ダービーに騎乗する。しかしその16日後の6月11日、中島騎手は42歳でこの世を去った。
奥平真治厩舎は開業から1985年7月までに重賞を18勝しているが、そのうち16勝は中島啓之騎手によるものだった。いきなり厩舎の主戦であり親友を亡くした奥平師は当時の気持ちを「右腕をもぎ取られたような感覚」と例えた。
「それでも勝負の世界で生きる限り、過去の思い出に浸ってはいけない」と、日々繰り広げられる勝負の世界で前を向いたが、心中は決して穏やかではなかった。そして、そんな心中のさなかに3歳(現2歳)になったメジロラモーヌは奥平厩舎にやってきた。
そのころのラモーヌは以前の地味な牝馬とは一変し、馬体もグラマラスに成長していた。牧場では幼いころは右の飛節に難を抱えていたし、追い運動しても先頭に立つこともなかったが、成長して体が良くなるごとにいいキャンターをみせるようになった。
そして10月、メジロラモーヌは東京競馬場でデビュー戦を迎える。入厩後にどんどん成長したメジロラモーヌは、2着に20馬身差、タイムではなんと3秒1も離して勝ったのだ。ちなみに2着のダイナボンダーは後にオープンまで上りつめたし、4着のウメノシーボンは準オープンを勝っている。メンバーは決して弱かったわけではないのだ。
■1985年 テレビ東京賞3歳ステークス(GIII) 優勝馬 メジロラモーヌ
しかし、その頃のラモーヌはまだ精神的な脆さを持ち合わせていた。2戦目の京成杯3歳Sはスタート後に他馬と接触してエキサイトし、ひっかかり4着に敗退。しかし3戦目の寒菊賞、続くテレビ東京賞3歳牝馬Sは楽勝するのだ。特にテレビ東京賞3歳牝馬Sの優勝タイム1分34秒9は翌日に行われた朝日杯3歳S(優勝馬はダイシンフブキ)よりコンマ5秒も速い。
そのくらいメジロラモーヌは突出して速かったが、心身を完成させるにはまだまだ及ばなかった。
1986年、4歳(現3歳)になったメジロラモーヌは1月のクイーンCに出走。しかし、レース前から気持ちがエキサイトしてしまい4着に敗れる。ここまでメジロラモーヌには担当厩務員のいとこの小島太騎手や所属の柏崎正次騎手が騎乗していたが、目標である桜花賞出走のため長期の関西遠征に向かうにあたり、メジロ牧場が関西で多く預託していた浅見国一師の推薦もあり河内洋騎手が手綱を取ることになる。
■1986年 報知杯4歳牝馬特別(GII) 優勝馬 メジロラモーヌ
河内騎手は1978年にメジロイーグルで京都新聞杯を制している。メジロイーグルはメジロラモーヌの叔父にあたり(メジロラモーヌの母であるメジロヒリュウはメジロイーグルの半姉)、この血統には馴染みがあった。1985年に二度目のリーディングジョッキーに輝く関西を牽引するジョッキーだった。陣営にとって、大舞台を任せるのに頼もしい名手であった。
実際、河内騎手を背に迎えてからのメジロラモーヌは時にイレ込むことはあれど、それがレース結果に悪い影響を与えなくなった。むしろ、時に落ち着きさえみせ、しっかりと勝ち切るレースをするようになったのだ。
はじめてコンビを組んだ報知杯4歳牝馬特別(現在の報知杯フィリーズレビュー)では中段でレースを進め、ゴール前で2着のチュウオーサリーをクビ差とらえている。
■1986年 桜花賞(GI) 優勝馬 メジロラモーヌ
続く桜花賞ではJRAから単枠指定(まだ馬連や馬単がなかった時代に、人気の集中が予測できる馬が除外や取消するリスクを考慮し、該当馬を1頭の枠に入れる制度)され、断然の一番人気に推される。レースは中段を外から追走し、直線を向くと中央から早めに堂々の抜け出し。2着のマヤノジョウオに1馬身3/4差をつけての勝利だった。
桜花賞の表彰式、馬上の河内騎手は額に入った写真を持ち、その左腕を天にかざした。それは北野豊吉氏が写った写真であった。
そして、奥平師は生きていたならメジロラモーヌの背に乗っていたであろう、天にいる中島啓之騎手に向かって心で叫んだ。
「啓之、やったぞー!」、と。
※後編に続く。こちらのリンクからお読みください。
【ウマ娘】メジロラモーヌの軌跡(後編) 天から微笑む2人の魂/病弱な幼少期を乗り越え初の牝馬三冠
■関連記事 メジロラモーヌの弟・メジロアルダンの話