【将棋クロニクル】1936年「二・二六事件」の日に対局を続けようとした名棋士、大崎熊雄九段
大崎熊雄(追贈九段)は大正期から昭和のはじめにかけて活躍した棋士である。当時のトップクラスの一角を占める実力者であり、同時代の土居市太郎(名誉名人、1887-1973)らとは張り合う間柄だった。頭脳明晰ながら、性格は豪放磊落。棋界がまだ統一されていない群雄割拠の時代には一派を率いて、その旗頭となった。
1924年9月8日。関根金次郎(13世名人、1868-1946)、土居、大崎の三派が合同し、日本将棋連盟が結成された。
大崎が亡くなったのは1939年(昭和14年)4月。当時の『将棋世界』誌を開いてみると、享年は数えで58歳、あるいは56歳とも記されている。これは生年が明治15年とも17年(1884年)とも言われていたためだ。
筆者は大崎の正確な生年月日を知らない。東公平『阪田三吉血戦譜』によれば「明治17年1月生まれ」で、それに従えば、大崎は数え歳では56歳、満年齢では55歳のときに亡くなった。
大崎の葬儀では、親交のあった漢学者・芳賀剛太郎が弔辞を読んだ。大崎の略歴をたどる個所を引用してみたい。(カタカナはひらがなに改め、句読点を補った)
大崎は二十歳そこそこで日露戦争(1904-05)に出征する。最前線での戦闘は凄惨をきわめ、大崎は何度も生死の境をさまよった。大崎と親しかった観戦記者の菅谷北斗星(1895-1962)の記述によれば、大崎は出征中、実に16人の敵兵を倒したという。
金鵄勲章は「武功抜群なる者」に与えられた勲章だ。日露戦争のあと、司令官クラスの十数人の軍人には最高の功一級が贈られた。陸軍の一兵卒だった大崎は功七級だった。
観戦記者の倉島竹二郎(1902-86)は若き日、すでに大家となっていた大崎から多大な影響を受けた。倉島は大崎について、著書『近代将棋の名匠たち』(1971年刊)で次のように記している。
以下は戦場における白兵戦の模様が長く、生々しくつづられている。2月の雪の朝。大崎は手榴弾にやられ、谷間に転がり落ちて気絶する。そこで1人の若いロシア兵と遭遇。大崎は向かってきたロシア兵の銃剣をわざと右の肩先で受け止め、気を失う寸前に拳銃の引金を引き、相手を射殺した。大崎を探しに来た二人の戦友がやっとのことで銃剣を抜き、大崎は生き延びた。
金鵄勲章を子どもに貸し与えて遊ばせるのは、戦場で悲惨な体験をした、大崎なりの考えがあってのことだった。
大崎はもともと政治家志望の青年だった。しかし戦争で右手を負傷したためそれを断念。残された左手の自由を頼りに、将棋の道を志す。当時にあっても遅いスタートだった。
1935年。関根金次郎が勇退を表明。実力制名人戦がスタートした。木村義雄(1905-86)ら新時代のトップが台頭する中、大崎はすでに指し盛りをすぎていたが、全八段の特別リーグに参加。次期名人位を争う立場にあった。
1936年2月26日。東京は大雪が降っていた。大崎は以前から体調が悪化していたが、無理をして土居市太郎との対局に臨んでいた。その日、いわゆる「二・二六事件」が起きる。倉島は観戦記に、次のように記している。
「将棋指しは将棋を指すのが本分じゃ」。大崎は強い調子で、対局を続けるべきだと主張したそうだ。
対局は土居先手で、戦型は相掛かり。大崎が48手目を指した序盤で、指し掛けとなった。もとより持ち時間は13時間と長く、1日で指し切ることはできないが、1日目の早い段階で対局は中断となった。いくら大崎に強い気持ちがあっても、現実にはそうせざるをえなかったのだろう。
当時の倉島の観戦記には「何分大崎八段は病後のことゝて疲労はげしく」と理由が書かれている。それに加えて、二・二六事件のただなか、都内で将棋を指しているどころではなかった。倉島は後年「次々に伝わってくる真相とデマをとりまぜてのニュースに、気分がすっかりこわされてしまって、対局は中止のやむなきにいたった」と記している。
当時の将棋連盟本部は都内の青山にあった。倉島は病身の大崎を気遣って、一緒に連盟を出た。1937年の五・一五事件では軍人たちによって首相・犬養毅が殺害された。そしてこんどの二・二六事件では大蔵大臣・高橋是清や内大臣・斎藤実らが殺害されたと伝えられていた。
「日露戦争の勇士」である大崎は、徹底して戦争を嫌っていた。もし大崎が将棋ではなく政治の道に進んでいれば、戦争に反対する、勇気ある政治家になっていたのかもしれない。
大崎と土居の対局は3月11日に再開された。67手目を土居が指し、大崎が68手目を封じたところで再び指し掛けとなる。中盤の戦いが始まって、形勢はほぼ互角というところだ。
対局は翌12日に指し継がれる予定だった。しかし帰宅した大崎は自宅で倒れて意識不明となり、入院に至る。対局再開は不可能となった。
封じ手が開かれぬまま終わった、という例はほとんどないだろう。大崎は名人決定特別戦に復帰することなく、そのまま棄権。実力制の初代名人位には、木村義雄が就いた。
大崎が危惧した通り、二・二六事件のあと、日本は軍国主義に傾いていく。浮世離れしているかのような将棋界も、世相と無縁ではいられない。1939年には、将棋大成会機関誌『将棋世界』の表紙には「国威発揚」と記されている。大崎が亡くなったのは、将棋界も冬の時代に入ったその頃だった。
観戦記者の倉島は若き日、新聞社内のごたごたによって担当する将棋欄が縮小させられたのに不満を持ち、大崎にその旨を述べた。倉島は、自分以上に大崎の方が、幹部の無能に憤激しているはずと思っていた。しかし意外なことに、大崎は穏やかに、倉島をなだめさとした。
世界中に多くの惨禍をもたらした第二次世界大戦は、1945年に終わった。そうして将棋界にも再び春が訪れたのは、大崎が亡くなって、6年経ったあとだった。