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安土城の天主を描いた「安土山図屏風」がローマ教皇に献上された経緯とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
安土城。(提供:イメージマート)

 現在、滋賀県は天正少年遣欧使節がローマ教皇に献上した「安土山図屏風」を探しているという。その辺りの経緯について、考えてみることにしよう。

 天正4年(1576)、近江六角氏を追放した織田信長は、安土城(滋賀県近江八幡市)を築くことにした。普請総奉行は重臣だった丹羽長秀が務め、奉行には森三郎左衛門、大工頭には熱田大工の岡部又右衛門が任じられたという。

 石垣普請には坂本(滋賀県大津市)の穴太(あのう)の石工らが動員され、11ヵ国から築城に携わる人々が集められた。安土城は総石垣で築かれ、山城から平城に移行する過渡的な形式で、天主は五層七重だったといわれている。

 信長は子の信忠に家督と岐阜城(岐阜市)を譲ると、本拠を安土城に移した。天正10年(1582)6月に本能寺の変が勃発すると、安土城には火が掛けられ、無残にも天主などは灰燼に帰したのである。

 ところで、安土城を描いた作品は、「安土城図」、「江州安土古城図」などがある。しかし、いずれも近世に至って描かれたもので、とても同時代のものとはいえない。では、「安土山図屏風」は、どのような経緯で制作されたのだろうか。

 天正8年(1580)、織田信長は狩野永徳に命じて「安土山図屏風」を描かせた。当時、永徳は著名な絵師として知られており、「安土山図屏風」は当該期の安土城とその城下町を描いた、唯一の貴重な作品だった。なお、永徳は安土城の障壁画も描いたという。

 天正10年(1582)3月、天正遣欧少年使節がローマに向かって旅立った。天正遣欧少年使節とは、4名の少年(伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン)を中心とした使節団で、九州のキリシタン大名・大友宗麟らの名代としてローマへ派遣された。

 出発の際、信長は天正遣欧少年使節に「安土山図屏風」を託し、ローマ教皇のグレゴリオ13世に献上するよう依頼し、バチカンでたしかに手渡された。教皇は、屏風絵を住居と執務室を結ぶ廊下に飾ったという。

 しかし、「安土山図屏風」は行方不明になってしまい、現時点では見つかっていない。なくなった経緯も不明である。今回の調査で、発見されることを期待したい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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