各地で行われた震災追悼法要。葬式仏教と揶揄されても死者の弔いは久遠に #これから私は
3月11日、午後2時46分、深く染み入るような梵鐘が「10声」響き渡った。小黒澤和常副住職が務める宮城県気仙沼市の曹洞宗松岩寺では東日本大震災で120名を超える檀信徒の尊い命が奪われた。
この時間、同じように日本各地の多くの寺院で鎮魂の鐘が鳴らされ、遠く離れた東大寺や高野山でも慰霊法要が営まれたことが報じられた。
松岩寺は気仙沼の海岸まで約1kmの高台に位置している。2011年のあの時、お寺ではちょうど本堂の耐震工事の会議中だったという。
「大きな揺れの後、6mの大津波が来るという放送が無線で流れ、自分は近くの小学校まで走って逃げた。2件隣の家の畑まで波が押し寄せ身の毛がよだつ思いだった」と小黒澤副住職は振り返る。
「海沿いに並んでいた船舶燃料用のタンクが倒壊し、漏れ出した重油が水面に広がってあちらこちらから火の手があがっていた。まるで空が燃えているような光景だった」
震災直後の混乱の中、寺院であるがゆえに、死者と向き合う日々が続いた。震災翌日は、寺院内に遺体が安置された。また近隣の葬儀会館には多数の棺が安置され、当時徒弟として、本山への修行の準備をしていた小黒澤副住職は父である住職とともにお経をあげに向かった。
小黒澤副住職のように、震災直後に多数の遺体を前にお経を唱えたという僧侶は少なくない。震災後、被災地における僧侶の活動が報じられた。どうすることもできない状況下で、「救われた」という人は多い。
震災後に遺体安置所や避難所として利用された寺院も多く、改めて公共性や有用性、地域の中で存在意義を感じた人も多いのではないかと思う。
銀座で犠牲者を弔い続けた僧侶の死
時計塔で知られる東京・銀座の和光では、14時46分から1分間、鐘が鳴り響いた。その和光前では、震災後10年にわたって被災者を弔う托鉢僧の姿を度々見かけることがあり、メディアやSNSを通じてその活動の様子をうかがい知ることができたのだが、今年に入ってその姿を目にすることがなくなった。托鉢僧が新型コロナウイルスで死去していたというニュースが流れたのは3月に入ってからのこと。いつも立ち続けていた地下鉄出入口の外壁には、一枚の貼り紙が貼られていた。
「僧侶 崇英 2021年1月18日永眠 この場所に立ち続けた とても優しく美しい人」(現在はない)
近年、日本の仏教は「葬式仏教」と揶揄され、しばしば批判の対象になることも多い。「葬式仏教」が批判の的とされる理由の大きな理由は、お布施という名目で、多額の金銭がお経や戒名に対する対価として実質的に収受されていたことによる反発であることは否めない。
「寺院と付き合いがないので、法要もせず食事だけで簡単に済ませた」
という話も最近よく耳にする。
しかし、死者の弔いに真摯に向きあうような活動であれば、信仰の違いによる違和感を感じる人はいても、真っ向から不要論を唱える人は少ないのではないだろうか。文明や科学の領域では解決できない力が働いたとき、人はなぜか手を合わせたくなるものだ。無症状のときは必要性を感じなくても、変調をきたすと仏法という処方箋が効くこともある。
犠牲者の弔いを次世代へ引き継ぐ
聖武天皇による東大寺の大仏の建立も、当時猛威をふるっていた天然痘やその一帯で阪神・淡路大震災級の大地震が起きたこと等に起因するとみられ、寺院は長らく国家の安寧と国民の幸福を祈る道場としての役割を担ってきた。
前述の松岩寺もまた、1635年(寛永12年)にこの地でおきた鉱山の落盤事故の犠牲者の弔いを目的に建立されたと伝わり、以来、地域の中で死者供養を担ってきた。
だからこそ、「菩提を弔うことで、次世代へ思いを繋いでいくことができるのも寺院の役割のひとつだと考える」と小黒澤副住職は語る。
震災の年のお盆の時期は、まだあちらこちらにがれきの山があり、破壊された倉庫から流出した魚介類の残骸や排水溝のつまりなどからハエが大量発生した。
「復興とはほど遠い情景であったが、盂蘭盆会法要とお墓参りに多くの人が寺院に足を運んでくれた」と小黒澤副住職。
その年のお盆は、被災した各地の寺院でも例年以上に墓参に訪れた人が多いという。
梵鐘の音の数え方は、「声」と書く。これは梵鐘は「仏の姿」を模したもので、鐘の音は「仏様の声」をあらわすことから。
3月11日、各地で響き渡った梵鐘の「声」は、これから先も引き継がれていくことだろう。