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【体操】「挫折に気づいていなかった」 ユース五輪金メダリスト 湯浅賢哉が歩みを止めない理由

矢内由美子サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター
ユース五輪金メダルから7年。復活の兆しを見せる湯浅賢哉(撮影:矢内由美子)

 市立船橋高校1年生だった2014年に南京ユース五輪で金メダルに輝いた体操の湯浅賢哉(栃木県スポーツ協会)が、長かったトンネルを抜け出し、再び世界に挑む足掛かりを整えつつある。

 順天堂大学を卒業して社会人となった21年は、9月の全日本シニア選手権男子個人総合で84・631点を出して4位。12月の全日本団体選手権ではチームでただ1人、全6種目に出場し、7位と健闘した栃木県スポーツ協会を牽引した。

「まだまだですが、大きなミスはなかった。周りの先生方や、応援してくれている選手たちに『湯浅、復活だな』という姿を見せることができました」

 そう言い、笑顔で胸を張った。

 社会人2年目となる22年は、世界選手権出場という高い目標を掲げる一方で、昨年自らが代表となって開設した体操オンラインサロン「GYMNITY/ジムニティ」の活動の幅も広げていくつもりだという。

“最も精力的な体操選手”の1人である湯浅を取材した。

社会人になって最初の試合だった2021年4月の全日本個人総合選手権でつり輪の力技を披露する湯浅賢哉
社会人になって最初の試合だった2021年4月の全日本個人総合選手権でつり輪の力技を披露する湯浅賢哉写真:長田洋平/アフロスポーツ

■ジュニア時代から輝かしい成績を収めていた

 ジュニア時代の経歴は極めて輝かしい。体操を始めたのは「記憶にないくらい」という幼い頃。神奈川県川崎市で生まれ、2人いる兄の練習についていっているうちに、気づいたら体操をやっていた。

 覚えているのは、朝日生命体操クラブに通っていた小1頃のこと。1992年バルセロナ五輪銀メダリストの知念孝コーチの補助で鉄棒の大車輪を初めて成功させた時の感触だ。車輪を小1でできる子は少なく、「初めて技ができたときの快感を味わった瞬間だった」という。

 その後はよこはまYSMC体操クラブを経由して小6の終わりから鶴見ジュニア体操クラブに移籍した。ここでは田中佑典や白井健三を指導してきた水口晴雄コーチに師事し、それまで苦手だったゆかや跳馬を克服。小6の時に中1まで出られる東日本ジュニアで優勝し、中1で史上最年少の全国制覇を経験した。

 順風満帆としか言いようのない競技歴を引っ提げ、高校は千葉県の名門・市立船橋高校へ進んだ。「団体優勝できるチームに行きたい」という思いがあったからだ。

 こうして迎えた14年5月のユース五輪代表選考会。湯浅は、高校3年生の早生まれまでが選考対象になっている中で、高校1年生ながら1枠しかない代表の座を勝ち取った。そして、ユース五輪本番では種目別鉄棒で金メダル、ゆかで銀メダルを獲得。前途洋々の体操人生のはずだった。

順天堂大学1年生のときには大学の先輩でもある田中佑典(中央)とともに種目別の表彰台に上がった湯浅賢哉(右)。左は千葉健太
順天堂大学1年生のときには大学の先輩でもある田中佑典(中央)とともに種目別の表彰台に上がった湯浅賢哉(右)。左は千葉健太写真:アフロスポーツ

■大学進学後はケガに苦しんだ

 ところが、順天堂大学進学後は故障が相次いだ。1年生の時のインカレは団体優勝に貢献できたが、その後は成績が下降した。ケガは元々多かったというが、大学の4年間は負傷の連続。手の指を3回骨折(左の薬指、右手の中指、右の薬指)し、かかとも骨折。ひじは左が疲労骨折で、右は剥離骨折。そのほかにも、アキレス腱損傷に腰痛……。

 大学入学前に思い描いていた「ナショナルに入って、世界選手権に出場して、日本を代表して戦う」という目標はどんどん遠くにいってしまった。

 それでも周りは「ユース五輪の金メダリスト」という目線で湯浅を見る。ケガで練習をできず、結果が振るわないと「お前、ちゃんと練習してるのか?」と言われる。上位選手を引き合いに出され、「どうしてお前は真似できないんだ」と言われたこともある。

「俺は頑張っているのにどうして勝てないのだ」

 もやもやした思いのまま毎日を過ごした。

「傷ついたり、うるさいと感じたことはあります。自分が良かれと思って取り組んでいることを否定されてるような気持ちになることもありました。大学時代は正直、しんどかったです。でも僕は自分が挫折していることに、卒業するまで気づかなかったんです」

高校時代まではあん馬を得意としていたが、ひじを負傷してからは思うような演技をすることが難しくなったという
高校時代まではあん馬を得意としていたが、ひじを負傷してからは思うような演技をすることが難しくなったという写真:松尾/アフロスポーツ

■体操を辞めなかった理由の1つは「谷川翔」の存在

 大学を卒業して社会人になった今、湯浅は学生時代に向き合えなかった「挫折した自分」を受け入れ、そこから新たな歩みを進めている。

 心のよりどころになっている選手もいる。高校と大学でチームメートだった同期の谷川翔(セントラルスポーツ)だ。

「同い年のライバルは翔(かける)です。小学校の頃から知っていて、成績では僕が勝っていたけど、僕はジュニアの頃から翔の体操が一番好き。競技成績とは別で、翔のしなやかな体操がずっと憧れでした」

 良いものを良いと素直に認められることや、好きなことに一所懸命になれるのが湯浅の長所だろう。2018年の全日本個人総合選手権で谷川翔が内村航平の連覇を阻んで初優勝を遂げた時は、「やっと翔の良さをみんなが分かってくれて嬉しかった」という。

「翔は最近の日本選手にはいない、しなやかな美しい体操をする選手。それに、大学時代は何度も気持ちが腐りそうになった僕が、どんなに下に行っても頑張り続けることができたのは、同期の翔が活躍していたからです。翔を見て、自分は下にいるまま体操を辞めるわけにはいかないと思っていました。翔がいるから俺も頑張るという気持ちになることができていたのです」

2018、19年の世界選手権に出場した谷川翔。19年の世界選手権では団体銅メダルとなり、東京五輪出場権獲得に貢献した
2018、19年の世界選手権に出場した谷川翔。19年の世界選手権では団体銅メダルとなり、東京五輪出場権獲得に貢献した写真:長田洋平/アフロスポーツ

■体操選手の生活環境を向上させたいという思い

 コロナ禍に見舞われた20年、順大在学中でありながら次への一歩という気持ちでスタートさせたことがある。オンラインサロン「GYMNITY/ジムニティ」の設立だ。

「体操界には魅力のある選手がいっぱいいます。でも、報道されるのは上位のほんの一握りの選手だけ。多くの選手たちが輝ける場を作りたいと思ってオンラインサロンを始めました」

 湯浅自身が現役選手ということで日本体操協会のルールを遵守しつつ、現役選手の強みを生かした人脈でトップ選手の練習動画や技を習得するためのノウハウを公開するなど、貴重なコンテンツを次々と配信している。

 会員数は順調に増えており、You Tubeの登録者数は2300人を突破。今はまだ自身の持ち出しによる運営だが、いずれは事業として収益を上げることで、体操選手の生活環境の向上に寄与したいという考えがある。集めた動画をアーカイブ化し、体操の動画ライブラリーのようなものにするイメージもある。

今は、体操の本質である楽しさを感じられているという湯浅賢哉(撮影:矢内由美子)
今は、体操の本質である楽しさを感じられているという湯浅賢哉(撮影:矢内由美子)

■挫折したから気づけたことがある

 22年に目指しているのはナショナル入りと世界選手権代表入りだが、その先の目標もしっかりと定めている湯浅。

「もちろんパリ五輪を目指しています。22年からの新ルールも、僕に向いていると思っています」と意気軒高だ。

 精力的な活動ぶりが頼もしい23歳は「大学時代に挫折したことで気づくことができたのは体操の楽しさ。体操に対する思いの本質を学んだのが大学でした。体操は何も出来ないところから、どんどん出来るようになっていくところが楽しい。僕は今でもまだまだ上手くなると思っています」

 ユース五輪以来となる日の丸をつけて演技をする湯浅を、ぜひ見たい。

サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。スポーツグラフィックナンバー「Olympic Road」コラム連載中。

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