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【「麒麟がくる」コラム】明智光秀が治水対策のために作った「明智藪」は実在したのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
福知山城天守から見た城下。明智光秀は、領民のために明智藪を築いたと言われている。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■明智光秀と「明智藪」

 明智光秀といえば、非常に領民思いだったと言われている。その一つの理由が、洪水に悩む領民のために築いた「明智藪」の存在だ。明智藪は、京都府福知山市を流れる由良川に築かれた。長さは約500m。

 かつては、「蛇ヶ端(じゃがはな)御藪」と称されたが、のちに光秀の遺徳を偲んで、人々は明智藪と呼ぶようになった。民が光秀を慕っていた証にもなろう。

 とはいえ、明智藪に関しては、いくつもの疑義がある。その点を考えてみよう。

■根拠となる史料

 明智藪のことを記した史料は、寛政6年(1794)に完成した『丹波志』である。著者は福知山藩士の古川茂正と篠山藩士の永戸貞である。光秀の没後、約200年後の史料だ。

 2人は丹波6郡を対象として執筆したが、結局は天田・氷上・多紀郡の3郡を完成したところで亡くなってしまい、未完のまま伝わった。大正年間になって、北村竜象が丹波6郡を対象に『丹波志』を完成させた。

 『丹波志』には、たしかに光秀が堤(堤防)を築いたと記されている。しかし、同時代(光秀が丹波を支配していた頃)の史料には、明智藪に関する記載をまったく確認することができない。

■本当に光秀が築いたのか

 同時代の史料で確認できないとなると、ことは厄介である。すでに17世紀後半の史料には「蛇ヶ端御藪」の記載が確認されており、おおむね戦後になって明智藪と称されるようになったという。

 やがて自治体史でも明智藪の記述が見られるようになり、いつのまにか明智藪の存在が公認されるような形になった。つまり、独り歩きしたといっても過言ではない。

■なぜ明智藪は独り歩きしたのか

 明智藪が独り歩きしたのは、光秀を慕う領民が「この堤防はきっと光秀が作ったに違いない!」との熱い思いを仮託したに過ぎないだろう。やがて、その噂は人々の間にまことしやかに広まり、明智藪の存在が既成事実となった。今さら「おかしい」とは、言いにくかったに違いない。

 明智藪の存在をもって、「明智光秀は領民思いの名君だった」という研究者がいる。しかし、それは間違いではないが、正しくもないといえる。

■光秀は良い人だったのか

 戦国大名にとって、農民の存在は非常に重要だった。というのも、戦国大名は農民から年貢を徴収しなければ、存続が困難だったからだ。ましてや洪水で田畠がダメになり、農民が逃亡しようものなら最悪である。

 言葉は悪いが、農民は年貢を運ぶ「金づる」だったといえる。光秀が領民思いの名君だったかどうかは別として、農民が困っていることに対しては、即対応しなくてはならなかった。自分も困るからだ。

 明智藪が史実か否かは不明であるが、仮に事実であったとしても、光秀が農民のために堤防を作ることは当然の義務だった。したがって、ことさら名君であることを強調する必要はない。

 光秀に限らず、戦国大名は名君として称えられがちだが、そのあたりの評価は慎重になるべきだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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