「同一労働同一賃金」で私たちは幸せになれない
「同一労働同一賃金」の導入に熱心な安倍政権だが、それが私たちの幸せに簡単にはつながらないことを再確認しておく必要がある。
5月18日に政府は、関係閣僚と有識者で構成する「1億総活躍国民会議」を首相官邸で開き、今後10年間の中長期計画「ニッポン1億総活躍プラン」案を決定した。今月31日に閣議決定され、動きだす予定だ。
このプランの一つに盛り込まれているのが、「同一労働同一賃金」である。同じ労働に対して同じ賃金を支払う、言葉どおりに受けとれば、実にまっとうなプランだ。
しかし、ここに「落とし穴」がある。
同一労働同一賃金が導入されれば非正規雇用の低賃金を正規雇用並みに引き上げるきっかけになる、という論調もある。非正規雇用にとっては喜ばしいことだが、少し冷静に考えてほしい。単純に非正規雇用の賃金を正規雇用並みに引き上げれば、企業側の雇用コストは跳ね上がることになる。そんなことを、企業側が望むわけがない。そんな流れになれば、本気になって潰しにかかるはずだ。
ところが産業界は、安倍政権の同一労働同一賃金に牙をむこうとしていない。むしろ、歓迎している雰囲気である。それは、同一労働同一賃金が雇用コストの引き上げにはならないという暗黙の了解があるからにほかならない。
雇用コストを引き上げずに同一労働同一賃金を実現するには、正規雇用の賃金を非正規並みに引き下げる、との考え方もある。企業側としては大歓迎だろうが、正規雇用側が納得するわけがない。露骨にやれば労使間の深刻な対立になりかねないので、そんなヘタなことは企業側もやらない。
そこで重要になってくるのが、「同一労働」の意味である。同じオフィスにいて同じ時間だけ居れば同一労働とみなして同一賃金にするのなら、正規雇用の賃金を引き下げるか非正規雇用の賃金を引き上げるしかない。これは先述したように、企業側としては絶対にやりたくないことだ。
しかし、同一労働の意味を違う方向から考えると、雇用コストを引き上げない、企業にとっては喜ばしいものとなる。それは、「労働」を「成果」と読み替えるのだ。
極端な話、同じオフィスに12時間居て成果が10の人も、1時間しか居ないのに10の成果をあげた人も、同じ成果だから同一賃金になる。正規雇用も非正規雇用も関係ない。同じ成果には同じ賃金が支払われる。
企業にとっては、たとえ雇用コストは上がったとしても、成果が上がれば業績は伸びるのだから、雇用コストの上昇分くらいはカバーしてしまう。それ以上の利益をもたらすことになるだろう。そういう同一労働同一賃金、つまり同一成果同一賃金なら、企業側が反対する理由はないのだ。安倍政権のいう同一労働同一賃金は、そういうものなのだ。
「ニッポン1億総活躍プラン」の前から、その動きは始まっている。今年2月13日、厚生労働省は労働政策審議会を開き、「ホワイトカラー・エグゼンプション」の導入を正式に決めた。時間ではなく成果に対して賃金を支払うもので、脱時間給制度とも呼ばれている。
これを企業が本格的に導入すれば、正規雇用であれ非正規雇用であれ、いくら残業しても成果がでなければ残業代も時給もでない。これほど企業にとって喜ばしい制度はない。
「ニッポン1億総活躍プラン」の同一労働同一賃金は、このホワイトカラー・エグゼンプションをブルカラーにも非正規雇用にも拡大しようとするものでしかない。いくら長時間働いても、成果をださなければ賃金はもらえない制度である。
さらに、この成果が曲者でしかない。誰が成果を認めるかといえば、それは企業でしかない。雇われている側が成果があったと主張してみたところで、雇っている側が成果とみなさなければ、賃金は支払われないことになる。何時間働いても、企業側が成果とみなさない仕事なら、タダ働きとなってしまうのだ。
やっかいなのは、成果の定義が曖昧模糊としていることだ。もっと言えば、企業側の都合のいいように成果は定義されてしまう。
企業側としては、雇用コストを上げないようにして成果だけを成果を挙げさせることなど、いとも簡単にできてしまうのだ。それが、安倍政権の同一労働同一賃金の本質である。だから、産業界から強い反対の声はあがってこない。
そこのところを認識しておかないと、同一労働同一賃金という美辞麗句にごまかされて、さらに過酷な労働条件を受け入れさせられることになる。安倍政権の同一労働同一賃金に、冷静な目を向けましょう。