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台湾でプレーした日本人選手たちを振り返る

阿佐智ベースボールジャーナリスト
日台プロ野球のパイオニアのひとり、野中徹博は甲子園のスターだった。(写真:岡沢克郎/アフロ)

 昨年のドラフトでの指名が噂されながら指名ならなかった元メジャーリーガーの田澤純一が、台湾プロ野球入りし、味全ドラゴンズのクローザーとして活躍している。

かつてメジャーリーグで活躍した田澤純一は現在台湾の味全ドラゴンズでプレーしている。
かつてメジャーリーグで活躍した田澤純一は現在台湾の味全ドラゴンズでプレーしている。写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ

 1990年にリーグ戦がスタートした台湾プロ野球。正式名称は中華職業棒球連盟(CPBL)と言い、現在5球団でリーグ戦を行っている。レベル的には、プロの精鋭をそろえた代表戦においては、正直なところ日本の敵ではなく、これまで当地に遠征した日本のチームの多くは二軍であったことを考えると、プロの二軍より少し上と言ったところが妥当だろうか。

 かつて日本の統治下にあり、その時代に野球が普及したという歴史的経緯もあり、トップレベルでの選手の往来も盛んで、郭源治(中日)、郭泰源(西武)、荘勝雄(ロッテ)らが日本のプロ野球で活躍する一方、日本からも多くの選手が台湾に渡りCPBLでプレーしている。ただし、両国リーグのレベル差から、日本から台湾へ渡る選手は、基本的に日本で活躍の場がなくなった者たちだ。一昨年は、ソフトバンクを2018年シーズン前に退団して療養生活をしていた元メジャーリーガーの川崎宗則が、「現役復帰」の場として、復活球団・味全ドラゴンズ(この年はファームのみの活動)を選び、大きな話題を呼んだ。

 これまで、日本から台湾に身を投じ、CPBL(一軍)でプレーした選手の数は、田澤を含め74人。極端な「打高投低」で投手不足という現地の事情から、その圧倒的多数は投手で、野手は13人に過ぎない。彼らの多くは日本では無名のまま終わった者だが、中には一時代を築き当地で「名選手」となった者もいる。

台湾プロ野球草創期を彩った日本人助っ人たち

 台湾プロ野球で最初にプレーした選手は、小川宗直だ。社会人野球からドラフト3位で西武に入団したサウスポーだったが、1987年から1991年までの5年間で22試合しか一軍での登板はなく、中日、近鉄を経て自由契約となった。そして翌1992年、味全ドラゴンズに入団するが、ここでも6試合の登板に終わり、プロ未勝利のままシーズン途中にリリースされた。

 その翌1993年には、4人の選手が日本のプロ野球(NPB)出身者が台湾に渡っている。その中で、一番話題を呼んだのは、野中尊制(崇博)である。

 甲子園通算10勝の実績をひっさげ、1983年ドラフトで阪急ブレーブスから1位指名を受け入団した右腕だったが、プロではその才能を開花させることはできず、打者転向の後、球団がオリックスに身売りされた1989年シーズン限りで自由契約となり、サラリーマン生活を送っていた。

 しかし、3年のブランクの後、草野球での好投がきっかけとなり、プロ復帰を決意。1993年、俊国ベアーズと契約を結ぶと、先発の柱として15勝を挙げた。そして、日本球界からラブコールを受けた野中は出身地の球団である中日と契約を結ぶと、以後、リリーフ投手として中日、ヤクルトで計5シーズンプレーし、104試合でマウンドに立った。

 野中が俊国でプレーした同じ年には、社会人野球経由ながら野中とドラフト同期の成田幸洋(元西武・大洋)も入団。兼任コーチとして2シーズン在籍し、6勝13敗1セーブを記録した。また、西武ライオンズ黄金時代を縁の下から支えた現ソフトバンクコーチの立花義家も現役最後のシーズンを送っている。

 またこの俊国には、1995年に東北学院大出身の金子勝裕が在籍、外野手として3試合に出場しているが、彼は、NPBを経由せず始めて台湾プロ野球でプレーした選手ということになる。また、この年には、中京高校(現・中京大附属中京高校)時代、野中とバッテリーを組んでいた鈴木俊雄がロッテから味全ドラゴンズに移籍、準レギュラーの内野手としてプレーしている。

 俊国球団は1996年前期シーズン後、身売りし、興農ブルズ(買収年のみベアーズのまま)となるが、ここでプレーしたのが小島圭市投手だ。ドラフト外で1987年に巨人に入団しながらも、アメリカのマイナー生活をはさんで1998年に中日を自由契約になるまで、NPB通算2勝にとどまった彼は、1999年に興農に入団するが、3度の先発で2勝を挙げながらも、次年度のオファーはなく引退。MLBロサンゼルス・ドジャースのスカウトに転身し、石井一久、黒田博樹、斎藤隆の獲得に貢献している。

台湾に渡ったドラ1ジャーニーマン達

 台湾プロ野球に身を投ずる者には、「ジャーニーマン」が多い。彼らはプレーできる場がある限り、リーグ、国を問わず、グラブとバットを携えて海を渡るまさに「野球渡世人」だ。その中には、先述の野中のように、日本でドラフト1位指名されながら、その才能を開花させることができず、国外にプレーの場を求めた者も多い。

 社会人野球の名門、日本生命で都市対抗優勝を経験し、1986年ドラフトで南海ホークスから1位指名を受け入団した田島俊雄(入団時は敏雄)は、日本ではルーキーイヤーの1987年に3勝を挙げたにとどまり、ロッテに移籍後、1992年限りで自由契約となってしまう。それでも彼は、アメリカで現役続行を決意。1993年、この年に発足した独立リーグ、ノーザンリーグでプレー。その後、ドジャースと契約し、翌年までの2シーズン、A級のサンバナディーノで主にリリーフとしてマウンドに登った。そして1995年にはアメリカでのニックネーム、「トニー田島」として日本ハムにテスト入団し、日本球界復帰を果たすが、結局一軍のマウンドには立つことなく2シーズンでリリースされると、台湾の名門、兄弟エレファンツに新天地を求めた。

 兄弟では1年目は1勝に終わるが、2年目の1998年には先発の柱として8勝12敗の星を残した。しかし、外国人選手の見切りが早い台湾球界にあって、3年目の1999年は、7試合で2敗、防御率13.11と、出だしにつまずくと、シーズン途中にあっさり解雇。そのシーズンはアメリカ独立リーグで終え、この年限りで引退となった。

台湾を去った後、アトランティックリーグ(米独立)で現役生活の最後を送った田島俊雄。(筆者撮影)
台湾を去った後、アトランティックリーグ(米独立)で現役生活の最後を送った田島俊雄。(筆者撮影)

 1999年シーズンの始まりを兄弟で田島とともに迎えたのが、巨人、ロッテでプレーした羽根川竜だ。日本では未勝利に終わった羽根川だったが、台湾では先発の柱となり、2年目の2000年には11勝を挙げ、この年限りで引退し、現在は建設業を営むかたわら、古巣・巨人の「OBスカウト」としても活動している。

 ドラ1組の中にあって、日本でも主戦級として活躍しながら、のち台湾に渡って、監督まで務めたのが、元阪神の中込伸だ。1989年から11年プレーし、2ケタ勝利はなかったものの、先発投手として規定投球回数を4度クリア。通算41勝を挙げた右腕は、2002年に兄弟エレファンツに入団すると、エースとしてチームの連覇に貢献した。この年から3年連続で2ケタ勝利を挙げたが、2005年には投手コーチも兼任することになり、この年限りで現役を退きユニフォームを脱いだ。そして2007年にはコーチとして現場復帰。2009年のシーズン途中に監督に就任すると、今度は指導者としてチームを後期優勝に導いた。

 その中込の後を追うように2003年に兄弟に入団したのが、西武などで活躍した横田久則だ。このシーズン、最多勝となる16勝を挙げた横田は、中込とローテーションの両輪を形成した。

 この横田と台湾で投げ合ったこともあるのが、1985年のドラフト1位で大洋ホエールズに入団、大洋と中日で実働14シーズン、51勝71敗62セーブを挙げた中山裕章だ。中日退団後、2002年から2シーズン中信ホエールズでプレーした彼は、主に先発投手として2年連続2ケタ勝利を挙げ、59試合25勝14敗1セーブという記録を台湾で残してユニフォームを脱いでいる。

 2005年に西武から兄弟に移籍した武藤潤一郎もドラ1組だ。1992年にロッテから1位指名を受け、プリンスホテルからプロ入りした武藤だったが、先発ローテーションに定着したのは6年目のこと。結局、中込同様、2ケタ勝利には届くことなく、30歳台以降はリリーフに降格。その後日本ハム、西武と渡り歩き、兄弟に移籍し、再び先発を務めるようになったが、6勝10敗に終わると、そのままユニフォームを脱いだ。

「野球留学」で台湾に渡った選手たち

「野球留学」という言葉がある。プロの場合は、試合経験を積ませ、ハングリーな環境での精神力を身につけさせるため、若手選手を国外のレベルの低いリーグに一定期間送り出すことを指す。古くから行われ、行き先はアメリカのマイナーリーグであることが多いのだが、1990年代には、台湾がその行き先になったこともあった。

 ドミニカ人投手、ロビンソン・チェコを覚えているだろうか。ドミニカアカデミーから1992年に広島カープと契約した彼だったが、2年間で一軍登板はゼロ。そこで、広島球団は、彼を一旦自由契約にした上で、1994年、時報に入団させた。ここで1年間ローテーションを守ったことから、広島は彼を呼び戻し、チェコは翌1995年に15勝8敗という見事な成績を収め、1996年にはメジャーリーグに旅立っている。

 広島球団はこのチェコの事例に味を占めたのか、チェコを呼び戻した1995年には川島堅池田郁夫鈴木健千代丸亮彦の3投手を、1997年には菊地原毅を時報でプレーさせている。このうち、菊地原はのち名リリーバーとして才能を開花させている。

 また、中日も1999年に白坂勝史を兄弟エレファンツに派遣。2勝3敗の成績をおさめ、翌年中日に戻るも、結局一軍登板はないまま球界を去ることになっている。

新リーグ、「台湾大連盟」でプレーした日本人選手

 台湾プロ野球は、その人気絶頂期の1990年代半ば、混乱期を迎える。1996年、既存リーグCPBLへの加盟を認められなかった勢力が新リーグ、「台湾大連盟(TML)」を結成。露骨な選手引き抜きを行い、両者はそれぞれの優勝チームによるチャンピオンシップを行うこともなく、分裂状態に陥る。九州ほどの大きさの国土に10球団以上が乱立する状況は、選手不足を招き、日本からも大量に選手が流れることになった。

 1997年の引退後、この新リーグ、TMLの顧問に就任したのが、郭泰源だった。その縁で、彼の古巣、西武関係から多くの人材がこのリーグに移ることになり、彼らの存在がこのリーグのレベル向上に貢献した。

台湾で現役生活の最後を飾るとともに、指導者としてのスタートを切った渡辺久信は、古巣西武の監督として、2008年のアジアシリーズで台湾の統一との決勝を制して優勝を果たした。
台湾で現役生活の最後を飾るとともに、指導者としてのスタートを切った渡辺久信は、古巣西武の監督として、2008年のアジアシリーズで台湾の統一との決勝を制して優勝を果たした。写真:ロイター/アフロ

 日本での現役生活の最後をヤクルトで送った西武黄金時代のエース、渡辺久信は郭の求めに応じて指導者として1999年渡台し、TMLの嘉南勇士に入団した。すでに現役を引退した渡辺だったが、言葉の通じない選手たちに身をもって教えるため、再びマウンドに立つことを決意。いきなり最多勝となる18勝を挙げ、最優秀防御率のタイトルも手にし、以後2001年までプレーした。渡辺が監督を務める勇士では、1990年ドラフトで中日から1位指名を受け入団した小島弘務投手も2000年シーズンを送っている。

 渡辺と同じく西武黄金時代を支えた石井丈裕もTMLで監督を務めたひとりだ。

 1999年シーズン限りで当時在籍していた日本ハムをリリースされた石井は、台北太陽でコーチ兼任として現役続行を決意。渡辺同様、移籍初年度の2000年に最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得。チームを優勝に導き、MVPにも輝いている。翌、2001年も9勝を挙げたが、そこで現役は引退。2002年は監督に就任した。石井監督の下、この年の太陽には、オリックス、ヤクルトで人気を集めた高橋智外野手の他、山原和敏(元日本ハム)、加藤博人(元ヤクルト、近鉄)の両投手が在籍していた。

 このリーグでも、日本でプロを経験せずプレーした選手がいる。

武藤幸司投手は、高校から一旦社会人野球に進み、3年プレーしてから九州産業大学に入学したという一風変わった選手だ。4年時には日米大学野球選手権にも出場し、ドラフト候補となるが、27歳という年齢がネックとなり指名には至らなかった。そこで新天地を台湾に求め、TMLの台中金剛に入団し、その実力をいかんなく発揮。3シーズンで27勝を挙げた。

台湾で「リベンジ」を果たした選手たち

 日本のNPBよりレベルの落ちる台湾で試合出場のチャンスをつかみ、ブレイクしたり、日本球界に復帰したりした選手も多い。

 ダイエーで2シーズンプレーしながら一軍登板は叶わず引退、1992年から打撃投手となっていた中井伸之は、1994年に台湾で現役復帰を果たし、三商で6勝を記録している。

 1994年ドラフトで中日から1位指名を受けた金森隆浩は「復帰組」のひとりだ。即戦力の先発候補として立命館大学から中日入りした金森だったが、一軍登板は2年目の1996年の2試合のみに終わる。翌年限りで自由契約となると、統一ライオンズの入団テストを受け、台湾野球に活躍の場を求めた。そして1998年シーズン、チームの求めに応じて先発、リリーフとも務め、3勝2敗、防御率3.09の成績を挙げると、中日との再契約を勝ち取った。

 2003年には社会人野球の三菱ふそう川崎でプレーしていた吉見宏明が統一ライオンズにテスト入団した。当初チームの期待は高くはなかったが、シーズンが開幕すると、セカンドのレギュラーの座をつかみ、打率.334を残した。 

 ロッテで6シーズンプレーした後、2002年シーズンを最後に引退し、会社員となって草野球をしていた竹清剛治は、2006年、古巣球団が提携を結ぶ中国球団に選手兼任コーチとして現役復帰。シーズン途中に興農に移籍して2勝を挙げている。

 早稲田大学から即戦力と期待されてプロ入りしながら、ヤクルト、楽天での11年で14勝に終わった右腕・鎌田裕哉は、2012年に移籍した統一でブレイク。16勝で最多勝に輝いたが、ここで野球をやり切ったのか、その年限りで引退している。

 台湾経由でNPB入りの夢を果たしたのが、養父鉄だ。亜細亜大から日産自動車に進んだ養父だったが、ドラフトにはかからず。ここで一念発起し、台湾からのオファーを受け、2001年、兄弟に入団すると、奪三振王とゴールデングラブ賞を手にし、帰国後、ダイエーホークスからドラフト7位指名を受けた。結局、ダイエーでは活躍ならず、1年で自由契約となるが、その後もアメリカのマイナーを経て、兄弟に復帰し現役を終えている。

 兄弟には、名門PL学園からロッテに進みながらも5年で一軍登板ゼロに終わり、一旦は中日の打撃投手となりながらも、現役復帰を目指してカナダや日本の独立リーグでプレーした小林亮寛が2008年に入団。養父と同じくゴールデングラブ賞を手にしている。

台湾で2度プレーした経験のある正田は現在も独立リーグで現役生活を送っている。(筆者撮影)
台湾で2度プレーした経験のある正田は現在も独立リーグで現役生活を送っている。(筆者撮影)

 変わり種は1999年のドラフト1位で日本ハムに入団した正田樹だ。高卒から入団3年目の2002年には先発ローテーション入りするなど順調な野球人生を送っていた正田だが、この年の9勝が日本でのキャリアハイで、その後伸び悩み、2006年限りで日本ハムを退団、阪神に移籍するが、ここでも結果を出せず、2008年からは台湾に渡り、興農でプレーする。ここで2シーズン連続の2ケタ勝利を挙げると、ルートインBCリーグの新潟アルビレックスを経由して、2012年にヤクルトで日本球界復帰を果たす。ヤクルトも2年でリリースされることになったが、彼は再び台湾に渡り、Lamigoモンキーズでプレー。現在も四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツで活躍している。

独立リーグから台湾に渡った選手たち

 正田は台湾球界から日本の独立リーグに移籍したが、逆に独立リーグから台湾プロ野球に転じた者もいる。

日本育ちでアメリカのマイナーリーグに挑戦した河本はNPBでの経験はないが、CPBLでプレーしている。(写真は四国リーグ・徳島時代,筆者撮影)
日本育ちでアメリカのマイナーリーグに挑戦した河本はNPBでの経験はないが、CPBLでプレーしている。(写真は四国リーグ・徳島時代,筆者撮影)

 元3Aの選手を父に持つ日米ハーフの河本ロバートは、日本育ちだったが、亜細亜大学卒業後、NPBではなくメジャーを目指すことにし、ドジャースとマイナー契約を結んだ。しかし、アメリカでは芽が出ず、3シーズンで退団。2012年からはBCリーグの新潟でプレーすることになった。ここでクローザーとして活躍すると、そのオフにはオーストラリアのウィンターリーグで武者修行を行い、オーストラリア球界とのパイプの太い台湾への移籍の道を切り開き、新興の強豪、ラミゴ・モンキーズへの入団wo決めた。ラミゴでは5セーブを挙げたものの、ひと月半で解雇。その後、新潟と四国リーグの徳島インディゴソックスでプレーした後、ユニフォームを脱ぎ、現在は高校野球の指導者として活躍している。

 同じく新潟から台湾プロ野球に身を投じたのが、社会人野球・九州三菱自動車からの独立リーグに進んだ知念広弥だ。2016年から2シーズン新潟で活躍したものの、大卒後社会人野球で4年過ごしていたことから年齢がネックとなり、目標だったNPB入りは果たせず、統一の入団テストを受け、見事合格し、2シーズンプレーした。

台湾でプレーした日本人メジャーリーガー

 冒頭に書いたように、一昨年シーズンに味全でコーチ兼任選手としてチーム再編成のためのキャンプに参加したのはマリナーズやブルージェイズで活躍した元メジャーリーガー・川崎宗則だが、台湾プロ野球の一軍公式戦に出場した日本人メジャーリーガーは、現在味全に在籍している田澤以外に3人いる。

日本人メジャーリーガーとして最初に台湾球界に現れた野村貴仁
日本人メジャーリーガーとして最初に台湾球界に現れた野村貴仁写真:ロイター/アフロ

 日本人メジャーリーガーとして台湾球界に現れた最初の選手は、オリックス・ブルーウェーブ黄金時代の名リリーバー、野村貴仁だ。オリックスの後、プレーした巨人を2001年限りで退団した彼は、おりからの日本人選手ブームもあってブリュワーズとメジャー契約で入団。シーズン序盤は活躍するも、次第に打たれ、マイナー落ちの後、シーズン終了後にはリリースされてしまう。翌2003年は日本ハムでプレーするが、戦力にはならず、2004年に誠泰コブラズに入団するが、1試合のみの登板に終わっている。

 NPBを経由せず日本人として初めてメジャーに上り詰めたマック鈴木も、選手生活の晩年を台湾で送っている。オリックス退団後、アメリカのマイナーを経由し、2006年からメキシカンリーグでプレーしていた鈴木だったが、2007年のメキシコでのシーズン終了後、後期優勝を狙うLaNewベアーズに向かい入れられる。翌年もLaNewで開幕を迎えたが、出だしにつまずき、防御率11.57に終わると、再び活躍の場をメキシコに移している。

 ホワイトソックスのクローザーも務め、名球界入りも果たした高津臣吾現ヤクルト監督も台湾でプレーしたメジャーリーガーだ。メジャーでの2シーズンの後、ヤクルトに復帰。2シーズン連続で13セーブを挙げたものの往年の力はもうないと判断した球団は2007年限りで戦力外通告を高津に行う。それでも現役続行の場を求めた彼は、2008年シーズンをアメリカでスタート。ここでも戦力外とされたが、今度は韓国に活躍の場を求め、シーズン半ばからウリ・ヒーローズのクローザーとして8セーブを挙げた。防御率も0.86と申し分ないものだったが、40歳という年齢がネックとなり契約更新はならず。2009年シーズンは、ジャイアンツの3Aでシーズンを過ごし、翌2010年シーズンは台湾に新天地を求めた。ここでも彼は格の違いを見せつけ、興農で26セーブ、防御率1.88の成績を残しチームの前期優勝にも貢献。日米韓台4か国のトップリーグで347セーブを挙げている。

 好成績を残した高津でさえ、解雇される台湾球界。短期間での契約解除は日常茶飯事だ。選手の立場からも、まだまだその居心地はいいとは言えず、他にいい契約がありそうならすぐにでも立ち去る。そのことは、ここでプレーした74人の日本人選手の内、2シーズン以上プレーしたものがたった14人しかいないという数字に表れている。

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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