佐渡より古い金山は、奥三河にあった ~ 本当はすごい産業遺産・津具金山
・佐渡金山よりも古い津具金山
世界遺産登録を巡って、「佐渡金銀山」が話題にならない日はない。佐渡の金山に関しては、諸説あるものの16世紀末に開発が始まり、江戸時代に入り本格的に採掘がはじまり、最盛期は17世紀だとされている。
ところが愛知県の奥三河にあった津具金山は、1572年(元亀3年)に武田信玄が砂金が出ることから、鉱脈を発見。金24万両を採掘したところから始まる。実は、その歴史は、佐渡の金山よりも古いのである。しかし、残念ながら、佐渡金山と比べると、すっかり忘れ去られているような感じがする。
・ジオマニアには人気のエリア
この奥三河地域は、ほかではあまり見ることのできない地形や地質、岩石や鉱物が多く、地質学に関心ある人たち「ジオマニア」にとっては非常に興味深い地域だ。
日本列島のほぼ中央を関東地方から九州地方まで貫く、日本最長の約1,000kmに及ぶ断層系である中央構造線に近く、この奥三河の地形は1500万年前の活発な火山活動によって形成されたもの。それゆえに、様々な種類の岩石を見ることができる。
・最盛期は、第二次世界大戦前の4年間
このように火山からの噴出物で形成された多種多様な岩石の中には、花崗岩や安山岩などもあるが、金、水晶、銀、水銀、銅なども産出した。
金の採掘は、次第に下火となり、次に脚光を浴びるのは明治時代に入ってから。しかし、採掘はうまくいかず次々と失敗。
ところが昭和に入り、「採鉱夫」が津具鉱山で金を発見したことから、再び注目を集め、1932年(昭和7年)には津具金山事務所が開設され、本格採掘に取り組んだ。すぐに金生産量は全国第26位の鉱山となり、2年後には、津具金山株式会社が設立され、国の重要鉱山の指定を受けるほどとなった。しかし、金山としての最盛期は短期間で、1938年から1942年だった。(注1)
・GHQが津具鉱山に目を付けた理由
津具金山では、金だけではなく様々な鉱産資源が産出していた。その中でも、第二次世界大戦中に日本政府が重要視したのが、アンチモン(輝安鉱)だ。
アンチモンは、難燃剤や鉛電池、鉛合金といった工業用に使われる重要な金属であり、軍需物資として重要だったのだ。1945年にGHQ(連合国軍総司令部)の命によってアメリカ人地質学者ローウェル・S・ヒルパート氏が来日し、18か月間かけて日本国内の鉱産資源について調査を行っている。
その調査報告書には、アンチモンの産出量では、兵庫県養父市にあった中瀬鉱山に次いで第二位の重要な鉱山であることが指摘されている。金山としてではなく、アンチモン鉱山として注目されたのだ。(注2)
・奥三河地域には、現役の鉱山も
金山としてよりも、アンチモンなどの鉱産資源が中心となったが、次第に産出量も減少し、1957年(昭和32年)頃に採掘が終わり、1958年(昭和33年)には閉山、津具金山株式会社も事業を終了させた。
しかし、奥三河地域には、現役の鉱山もある。北設楽郡東栄町には、化粧品の材料となる絹雲母(セリサイト)が三信鉱工株式会社によって採掘されており、ファンデーションなどの原材料として世界の化粧品メーカーに供給されている。
・世界遺産も良いけれど、地元の産業史にも関心を
このところ、世界遺産登録が大きな話題になっている。しかし、日本全国各地には、日本の古代史から現代史に繋がる産業や経済に大きな役割を果たした産業遺産が多く残っている。
幸いなことに、日本は、各地に地元企業や篤志家によって産業遺産や産業史に関する資料館や博物館が残されている。これらを「時代遅れ」、「無用の長物」と言って批判する向きもあるが、それぞれの地域の歴史や伝統などを大切にしていることの表れである。テレビでもこれまでの単に名所や名物を紹介する旅番組ではなくNHK総合テレビの『ブラタモリ』が人気のように、地形、地質、自然、産業などに多くの人たちが関心を持ち始めている。
地域の子供たちの教育だけではなく、産業遺産は、ポスト・コロナの観光資源となる可能性を秘めている。
今回、筆者が津具金山に興味を持ったきっかけは鳳来寺山自然科学博物館を訪問したことだった。奥三河地域の地質、自然に関して判りやすく展示されており、小さいながらも館員のみなさんの地元愛が感じられた。
みなさんの地元にも、この津具金山のような「本当はすごい産業遺産」が存在しているだろう。世界遺産も良いけれど、ポスト・コロナには、地元の博物館、資料館で、地元の産業史にも関心を持ってみてはどうだろうか。
注1 鳳来寺山自然科学博物館、「鳳来寺山 自然と文化」、1973年。
注2 Lowell S Hilpert (Author),Antimony resources of Japan Unknown Binding, January 1, 1947.