70年で投票率半減 ー これでいいのか?!統一地方選挙 ー
1.投票率は2分の1に
統一地方選挙が始まった。1947年に始まり今回が第20回、投票日は今月9日と23日の2回だ。この時期以外に行われる地方選挙がずいぶん増えた(例えば今回知事選は9道府県のみ)が、それでも4年に1回の大イベントだ。
ところが、70年前に90%近くあった投票率は、今やその半分まで下がっている。さらに、前回2019年の時は、地方議会の議員の4分の1は、無投票で選ばれている。
なぜここまで住民と地方政治の距離が遠くなったのだろうか。様々な分析が行われているが、私は根底にあるのは、地方政治とりわけ地方議会に対する住民の無関心、もっと言えば、国民の政治に対する無関心だと思う。
2.民主主義の形式化=「他人ごと化」
現代の民主主義は、国民が平等に投票権を持ち、自分の利害や意思を反映してくれそうな代議員を選ぶ、というのが基本だ。このしくみがうまく機能するには、政府やそこで行われている政策やそれを担っている政治家、行政官そしてその中へ入っていこうとする立候補者についての情報が公開されていること、有権者がそれらの情報に関心を持つこと、などが前提となる。また、有権者と政治の間を報道、解説、批判などを行うことによってつなぐジャーナリズムや学界が機能しないと、これらの前提が成り立たない。
ところが、社会が安定し豊かになれば、一般庶民の政治に対する関心が薄れていく傾向がある。主な先進国の投票率が過去数十年で見ると軒並み下がっているのは、このことを示していると思う。多くの国民は生活が豊かになれば、それを楽しむことの方に関心が向く。政治に対して言いたいことはあったとしても、強い利害や使命感を持つ者は少ないだろう。政治や行政は日常の関心からは遠ざかる。政治が「他人ごと」になっていくのだ。
実は政治を動かしている当の本人である為政者の方も、似たような状況だと思う。先進国では世の中がひっくり返るような大事件は滅多に起こらない(コロナ禍やロシアのウクライナ侵攻まで多くの人はそう思っていた)。大きな制度改革もたびたびはしなくてよい。日常の行政がうまく回っていれば、そのレールに乗っていて済むなら、それに越したことはない。彼らも「指導者」としての恵まれた生活を楽しめる。平穏な時代に大きい変革を行おうという政治家は少数派だし、既存の秩序を乱す者としてむしろ厄介視される。政治家が、政治の「本当の中身」でなく政治のしくみと手続きに沿って目の前のテーマをこなすようになっている。
付け加えると、社会のしくみが複雑になるほどそのしくみを回していくための手続きや形式も増える。会議が増え、文書が増え、儀式的なことも増える。民主主義では特に手続きが重要視される。法令に則り(最近これを表す「コンプライアンス」が頻繁に使われるようになった)、公正で透明でないといけない。もちろん大事なことだ。しかし、公正とか透明とかを示すための手続きも増える。政治家も行政官も肝心の中身よりこれらに費やす時間が馬鹿にならない。その結果、重大な問題が生じている。形式や手続きを整えることが目的化し、肝心の政治や行政の中身やその公正さ、透明さが十分確保されないことが多いのだ。日本は特にこの傾向が強い。そして「他人ごと化」が進むと「指導者」たちは、この形式をタテにとって政治を自分に有利なように動かしていくことが多い。形式をタテに取る政治家の発言を毎日のように聞く。いわく、「専門家会議の了承を得た」「多数の意見で決定した」「個別のことについては(個人情報のため)答えられない」等々。民主主義の形式化だ。
3.「他人ごと」を「自分ごと化」する
では、「他人ごと」を「自分ごと化」することはできるのだろうか。基本は個人の生活と政治や行政が直結していることを実感できる機会を作ることだと思う。その有効な例として、構想日本が2009年から行っている「自分ごと化会議」を紹介したい。
「自分ごと化会議」には、行政が行っている事業を住民がチェックする「事業仕分け(行政事業レビュー)」と、子育て、健康、防災など、身近な問題、地域の将来などを住民自らが議論して考える「住民協議会」の二つの種類がある。ここでは、より住民の意見が反映される後者を念頭に置いて説明しよう。
「自分ごと化会議」は、住民基本台帳から「無作為」つまり「くじ引き」によって選ばれた住民が参加することが最大の特徴だ。だから政治や行政に特別の利害や関心を持っているわけではない「ふつうの人」が構成員となる。
行政主導の審議会やタウンミーティングでは、住民参加といっても行政担当者がシナリオを書き、結論もほぼ決まっている。だから参加住民は意見を表明することはできても、それが政策に反映されたという実感を得ることはほとんどない。しかし、「自分ごと化会議」では一切シナリオは作らない。
会の当日は、構想日本が派遣するコーディネーターの下で、行政職員は説明者、討論者の一人として参加する。一つのテーマについて数回実施し、最終回で提案書をまとめる。
4.福岡県大刀洗町の例
福岡県久留米市に隣接する大刀洗町では、2014年から「自分ごと化会議」を毎年開催し、住民と行政が一体となって議論している。しかも、これを町の正式な審議会とすることを全国で初めて条例として制定した。
「くじ引き」で選ばれた住民が、条例に基づく公式な審議会を構成するというのは画期的なことであり、これまでに「ゴミ事業」や「公園整備事業」などで住民の提案が町の政策として反映されている。
効果はそれだけではない。参加した住民からは、「自分がゴミの始末をきちんとすることで、それだけ町の処理負担が減り、税金を使わないで済むことが分かった」という声が上がったり、「行政への関心が高まり、公務員を目指すことにした」「NPOを作って町のことをやりたい」という人が次々に出てきているのだ。
行政主導で、ゴミ処理についてのタウンミーティングをして、この町のゴミが何トン、処理に何億円と聞かされても住民の多くは「そうなんだ」で終わる。そこにはデータがあるだけで、住民の生活はないからだ。
だが、意見を述べ合う「場」を用意し、考える材料が提供され、住民が考える主体になれば、「生ゴミはなるべく水を切って出そう」とか「靴の箱は(店に)置いてこよう」といった自分たちの生活をどうするかといった方向に関心が向かい、町のこと=みんなのことが「自分ごと化」する。
こうした取り組みを始めると、地方議員が反対することもあるが、続けていくと傍聴する議員も増え、議会で言及するなど住民の声に耳を傾けるケースが広がりつつある。
5.原発を「自分ごと化」した例
もう一つ例を挙げよう。島根県松江市で「原発」をテーマに行ったものだ。この会の特色は、原発というタブー視されている問題を正面から議論したことに加えて、市民が実行委員会を作って行ったことだ。
松江は全国で唯一、県庁所在地に原発を持つ町で、原発関連の仕事に就く人も多いし、脱原発を主張する団体もある。この会議では、原発推進、脱原発それぞれの団体の人からの話を聞き、運営会社である中国電力の説明も随時聞きながら議論が行われた。会の雰囲気を知っていただくために、この会がまとめた「提案」の「はじめに」の部分を引用しよう。
なお、同じく原発を持つ茨城県東海村の職員がこの会を傍聴し、東海村での開催につながった。
ここには、難しい問題としての「原発」ではなく、大刀洗町の「ゴミ」と同じく、市民が自分たちの生活からエネルギーや原発について考えるようになった流れがよく表れている。また、傍聴者からも、自分たちと同じ「普通の人」がこんなに真剣に考えたり発言したりするんだ、できるんだ、と半ば驚きを抱くと同時に、政治や民主主義に大きな期待を持てた、ということが強く感じられる。
6.「民主主義のリテラシー向上」
「自分ごと化会議」に参加した住民のアンケートによると、それまで滅多に役所(市役所など)へ行ったことがない人が9割近くだ。ところが税金の使い方への関心は参加前の3割から参加後の7割へ、行政の事業への理解はそれぞれ1割から7割へと大きく増えている。その他、「他の委員の意見も含めて納得することが多かった」「楽しい時間だった」「こんなに自分の町のことを考えたことはなかった」などの意見もある。
参加して勉強になったというのはこういった会でよく聞く声だが、「楽しかった」「自分の町についての発見がとても多かった」「自分の町が好きになった」という声が多いのは、まさに町のことが「自分ごと化」していることを表しているわけで、実施者としては大変嬉しいし、勇気づけられる。
住民と同時に行政職員も変わる。もちろん事業仕分けや住民協議会に抵抗する職員、何も変わらない職員もいる。また、多くの職員は最初「無作為」と聞いて不安に思う。誰が来るか分からないからだ。ところが、いざ行ってみると「普通の住民」が生活に根差した建設的な意見を次々言ってくれる。普段、住民から苦情や要求を受けることが多い職員にとっては新鮮な驚きなのだ。肩の力を抜いて聞けば、多くの気づきが与えられる。そうやっていくうちに住民の方を向いて仕事をし、結果として行政にリアリティを持たせようとする職員が必ず出てくる。研究者の言葉を借りると、「リテラシーの著しい向上」ということになる。
これまで無作為抽出による「自分ごと化会議」は約170回(2023年3月現在)行い、1万人以上の人が参加したが、例外なく充実した議論が行われた。これを地道に続けていけば、それぞれの町の住民と職員が種火となって遠からず日本の政治・行政は地方から動き始めると期待している。
なお、海外でもこういった形の住民による議論は以前からある他、フランスではマクロン政権の燃料税引き上げに対して行われた「黄色いベスト」運動の経験を経て、抽選で選ばれた150人の国民による「気候変動市民評議会」が注目を浴びた。「くじ引き」が「選挙」に取って代わるとは思わないが。これ以上投票率が下がり、民主主義のリテラシーが低くなるようなら、本気で無作為=くじ引きによる民主主義を考えるべきではないか。