【札幌市中央区】ブラック・スライド・マントラと鯨の森に、会いに行った!
7月12日、少し打ち合わせまで時間があったので、市電西8丁目で降りて、歩いて見ました。
この地域は今、大通ウエストというエリア名で呼ばれつつあり、私が今関係しているポロコン(サッポロコンシェルジュ)という活動がその名前の発起人ということで、私も時折フィールドワークめいたものに立ち寄ります。
市電利用です!
まず、三吉神社。
なるほど、もともとはこの神社は現在の創成イーストにあり、すぐにこの地域に移動したのですね。
元々は秋田に由来のある神社だそうで、もしかしたらこの地域に秋田関係の人がたくさん入ってきたのでしょうか?いつかきちんと調べてみたいです。
マントラとは、呪文やお祈り。
そうして、その神社のすぐ近くにある、イサム・ノグチの素晴らしいアート作品【ブラック・スライド・マントラ】を見に来ました。今日の目的地のひとつです。
彼が、子供がここを滑る事によって完成すると言われた、使われて磨かれていく黒い花崗岩のアート。
わたしも何回か滑りましたが、子供心に還りますね(今でも子供そのものかもしれませんが)。
そのタイトルを解釈すると
【子供が滑るごとに、その幸せを祈ってくれる黒い石】
ということでしょうか?
深いです。ありがたや!黒い花崗岩が子供のために頑張ってくれてるんだ!
そう、このブラック・スライド・マントラの大切な存在意義は、イサム・ノグチが子供の幸せを祈った、ということなのではないかと妄想してしまいます。
そのため、子供が安心して遊べることを意図してでしょうか(文献がなかったので私の推測です)、
このオーダーを札幌市から引き受ける条件として、大通西8丁目と9丁目を隔てている通りをクローズして、2つの区画を一体化することを彼は要求しました。
紆余曲折はあったものの、最終的に彼の死後1992年にそれはOKとなり、無事にここに設置された、との事です。
鯨の森。
それではなぜ、イサム・ノグチがこの場所にこだわり、大通を横切る道をなくすることにこだわったのでしょうか?
その彼の心のうちを正確に知ることはもちろんできませんが、ここ大通西8丁目と9丁目、特に9丁目には、ハルニレがたくさん残っていたので、その外見から【鯨の森】と呼ばれていたことと関係があるのかな、と夢想しています。
そうした緑が多く、子供にふさわしい自然環境があったからなのではないか?と。
紐解くと、札幌の歴史。
鯨の森については知っていましたが、では何故ここだけのそう呼ばれるような、こんもりと樹木が残ったのか?
それは今回調べる過程でわかりました。
大通公園は防火帯の役目を果たしていました。元々は西7丁目までしかなく、そのせいで樹木は伐採されていたこと。
一方、西10-12丁目は練兵場がありやはり樹木がない状態になっていたのだと言うこと。
というわけで、西8丁目と9丁目だけが樹木が残っていたのだそうです。なるほどー。
ここにあるハルニレから、おそらく元々は湿地のようだったとわかるそうなのです。
明治時代の古地図を見ていると、この大通西9丁目(あるいはとなりの北1条西9丁目)にメム(アイヌ語で湧水地の意味)があったのが見て取れますので、それは間違いなさそうです。
古地図からは北1条西9丁目かと判別できるのですが、札幌市の昔の資料(1996年)には大通西9丁目と書いています。
鯨が、山になった。
というわけで今日のもうひとつの目的、ブラック・スライド・マントラのおとなりにある、【鯨の森】のエリアです。
まずは、おとなりのブラック・スライド・マントラより先に1964年ここに設置された【プレイスロープ】は、この鯨の森を象徴するようなフォルム。
登ってみると、ちょっとした山です。
風が吹いて良い気分!
そして、鯨あれこれ。
そして1966年には、姉妹都市ポートランドからの寄贈を含む遊具が設置されたとのことです。今あるものとは時代を経ていますので違うものもあるかも知れませんが、これらの遊具群もまた、イサム・ノグチのヒントになったかも知れませんね。
やはりイサム・ノグチは、この場所の自然と雰囲気を保全するために、(子供のために?)アートを置いて道をクローズし、都心の貴重な森と遊具の空間をキープしてくれようとしたのではないかな?という思いが、ますます強くなりました。
ところで、メムですが。
大通ウエスト地区は、今書いた(今は痕跡もない)大通9丁目か北1条西9丁目のメムの他にも、東の端には植物園に複数のメム、そして西の端には知事公館にも複数のメム(さらにもう1つ北側にあったと思われる)がありました。
多くの水の流れの記憶があるエリアなのでしょうね!
またあちこち巡ってみましょう。