【ハッケン!土浦まち歩き】土浦城の縄張りを歩くその3~墓地に現存する西側の守り、土塁(どるい)探策
土浦城址(亀城公園)を後にして、その周囲の「縄張り」を歩きます。当時の景色に想いを馳せながら、平地に築かれた城を守るための知恵を紐解いていきます。
水堀を造るときに出る土を生かした自然の防壁
「これをもとに歩いてみましょう」と、土浦市立博物館の学芸員・西口さんがバッグから取り出したのは、2020年に発行された「復刻 土浦城絵図―常陸国新治郡土浦城図―」(土浦市立博物館 ※東櫓で販売中[200円])。A1サイズの大きな紙面には、土浦城の本丸を中心に周辺の様子も含めて細かく描かれています。
地図は、水色の部分が多いのが見て取れます。
これは水路であり、川や霞ヶ浦などを示していて、土浦が水とともに生きた町であることを実感します。
絵図をもとに最初に訪れたのが「神龍寺(じんりゅうじ)」。土浦城址(亀城公園)から歩いて2分ほどの場所にある歴史あるお寺で、土浦藩を二百余年にわたって治めていた土屋家の菩提寺でもあります。
西口さん:江戸時代前期頃、神龍寺は水路に囲まれるようにして建っていました。お寺の西側には土塁(どるい)があり、城を守る役割を果たしていたんですよ。
土塁とは、敵の侵入を防ぐために土を盛って築く堤防上の防壁のこと。高台に建つお城に見られる石垣のような役割があり、傾斜ができるように土を盛って造ります。
土浦城界隈は水に囲まれた地形を生かして、堀を作る時に出るいらなくなった土(排土)を積み上げて土塁を完成させたといいます。土塁を造るためにわざわざ土を用意する必要がなく、最も効率的でエコロジーだったわけです。
神龍寺には、土塁の名残を見ることができる場所があります。西口さんが眺めているのは、上の写真の樹木の部分。なんと墓地の中に土塁があるというのです。
手前の樹木の先にもう1本大きな木が立っていますが、こちらも土塁の名残。樹木のある場所はこんもりと小さな丘のようになっていて突き固められた土でできています。
神龍寺と浄真寺の間に水路が挟まり、途切れる部分はあるのですが、絵図のように岸沿いにずっと土塁が続いていました。
人工的な門があるわけではありませんが、この土塁が城の守り。西側一帯を守る防壁なのです。
神龍寺の墓地には、国学者として常総地域史研究の礎を築いたことで知られる色川三中(いろかわみなか)のお墓もあります。
土浦城下の商家に生まれて、薬種業(現在の薬局)や家業である醤油醸造を営むかたわらで国学研究にも励み、土浦に住まう庶民の生活や様子を知ることのできる史料も数々残しています。
次の世代に土浦の「今」を伝えるために、時間を惜しむことなく研究に明け暮れた三中に感謝の意を伝えて、土塁探策はまだまだ続きます。
通り沿いに見られる水路の名残
絵図に見ながら土塁を辿っていると、西口さんがふと足を止めて「これ、橋の跡なんですよ」と教えてくれました。
神龍寺から浄真寺(じょうしんじ)へ向かう道すがら。よく見てみると「御城橋」と刻まれています。
こちらも橋だった頃の名残。道路にアスファルトが敷かれた現代では想像がつきづらいですが、ところどころに土浦が水に恵まれた町だったことを感じることができます。
「浄真寺」の本堂を囲む緑のたもとにも土塁が!
神龍寺から徒歩約5分、横断歩道の先に見えるのが浄真寺です。本堂の奥に緑が見えますが、これもまた土塁の名残なのでした。
浄真寺は1601年(慶長6年)に創建されたお寺で、土浦藩の礎を築き、初代城主を務めた松平信一(まつだいらのぶかず)の菩提寺でもあります。
本堂から左脇の道に入ると墓地があり、神龍寺と同じく奥のほうに樹木が生い茂っています。
近くで見るとこのような感じです。水路があった時代の流れに沿って土塁も湾曲して造られています。
さらに近くで見学すると土塁の姿を知ることができます。
これだけの量の土が盛られて防壁になっていたのでした。
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遠くから見ると緑豊かなお寺だという印象でしたが、なぜ樹木に囲まれているのか、樹木はどのような場所に立っているのかを知ることで水路があったころの土浦が、そして城を守る知恵を垣間見ることができます。
また、今の風景があるのは、江戸時代を生きた人々の知恵や努力によって成り立っているものを実感することができました。