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【戦国こぼれ話】知られざる戦国時代の女性・別所波。三木合戦における奮闘ぶりを検証しよう

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
さすがの羽柴(豊臣)秀吉も、別所波の活躍に舌を巻いたという。(提供:アフロ)

 東京オリンピックが開幕し、女性選手の活躍が光る。戦国時代の女性・別所波は、三木合戦において、羽柴(豊臣)秀吉率いる軍勢を蹴散らした。その生涯を追うことにしよう。

 別所吉親(長治の叔父)の妻・波は、畠山昭高の娘として誕生した。生年不詳。畠山昭高は紀伊畠山氏の流れを汲む人物であるが、別所氏との関係は詳しくわかっていない。波が別所吉親と結婚した時期も定かではなく、謎多き女性であるといえよう。

 天下統一を目指す織田信長は、中国地方の覇者毛利氏に並々ならぬライバル心を燃やしていた。天正5年(1577)、ついに信長は羽柴(豊臣)秀吉に命じて、中国方面の攻略を命じたのである。

 秀吉に協力したのは、三木城(兵庫県三木市)主の別所長治であった。信長の上洛以来、別所氏は信長に従っていた。しかし、翌年2月に催された軍議で別所氏と秀吉は決裂し、別所氏は毛利方に寝返った。

 一説によると、別所氏の提案した作戦が受け入れられず関係が破綻したというが、実際は毛利方の誘いに応じたというのが近年の説だ。両者の決裂により、三木合戦がはじまったのである。

 若き長治を支えていたのは叔父の吉親であり、戦いの舞台には吉親の妻・波の姿があった。波は女性にもかかわらず、羽柴勢と刃を交えた。波は太刀を振りかざすと、たちまち敵兵を切り伏せた。波は幼少から武将の妻となるべく、剣の修練を積んでいたのであろう。

 しかし、秀吉が兵粮攻めに転じると、事態は別所氏にとって急速に悪化していった。毛利氏からの食糧の補給路は断たれ、城兵はついに城内の馬や壁土をも食するありさまであった。まさしく地獄絵図である。もはや、戦局の挽回の余地はなかったといえよう。

 吉親は三木城の新城を守備していたが、波は三木城が落城寸前であることを思い、決死の覚悟で敵に矢を射た。そして、太刀を振りかざすと愛馬にまたがり、城門の外へと討ち入ったのである。

 敵兵には篠原源八郎という剛の者がいたが、波は源八郎の左腕を切り落とすなどの活躍を見せた。もはや、波の活躍は、男の武将を凌ぐものがあった。

 さらに、波は敵兵に組み付くばかりの勢いであったが、いったん引き返したという。秀吉はこれを「鬼神のような女である」と評したという。波の面目躍如たるところであるが、情勢は刻一刻と悪化していた。

 結局、天正8年(1580)1月、別所氏は降伏することになった。長治は城兵の命を助けるため、一族全員の自害を選んだ。波は3人の子供を刺し殺した後、自らは刀を口に加えて自害したという。あまりに凄絶な最期だった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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