【九州三国志】日向国の復帰と栄華の歩み!波乱に満ちた戦場と静謐なる最期
天正14年、秀吉公の島津征伐にて、伊東祐兵は黒田孝高のもと先陣を務め、宇留津城攻めでその才覚を発揮しました。
翌年には豊臣秀長率いる軍勢と共に日向国に入り、旧臣を糾合し、根白坂の戦いにも参加。
島津氏降伏後、祐兵はかつての領地に加え、新たに2,024町余の所領を賜り、曽井城を修復して拠点としました。
また、飫肥城も与えられますが、島津家臣の抵抗により奪還に苦心したのです。
文禄の役では甥や家臣を率いて朝鮮に渡り、戦功を重ねました。
朔寧城の戦いでは千の首級を挙げる働きで名を馳せ、虎狩りの逸話など武勇伝も豊富です。
さらには慶長の役で唐島や南原城の戦いに参戦し、軍才を発揮しました。
しかし、慶長5年、関ヶ原の役の際、病に伏し戦場を離れることに。
西軍の勧誘を退ける中、息子祐慶を東軍として参戦させるという巧妙な布石を打ちました。
その後、戦後処理で所領を安堵されるも、祐兵自身は役目を全うすることなく同年10月に42歳で亡くなります。
戦場に身を投じた激動の生涯は、穏やかな最期を迎えることで幕を閉じました。