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【深掘り「鎌倉殿の13人」】注目のキーマン、有力御家人和田義盛の前半生をおさらいする

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
和田義盛は、源頼朝から重用された。(写真:イメージマート)

 次回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で注目されるのは、北条義時と敵対する和田義盛だ。義盛の前半生(源頼朝の死まで)について、詳しく掘り下げてみよう。

■和田一族と和田義盛

 和田氏の遠祖は、三浦義明である。久安3年(1147)、和田義盛は杉本義宗(三浦義明の子)として誕生した。のちに、義盛は相模国三浦郡和田(神奈川県三浦市)に本拠を置き、「和田」を名字としたのである。

 治承4年(1180)8月、源頼朝が「打倒平氏」の兵を挙げると、義盛も三浦一族とともに馳せ参じた。頼朝は平兼隆を討ち取ったが、石橋山の戦いで大庭景親に敗れて安房に逃走したのである。

 頼朝は逃亡したが、三浦一族と義盛は本拠の三浦半島に帰還する途中、平氏方の畠山重忠と由比が浜(神奈川県鎌倉市)と遭遇した。義盛の弟・義茂は、重忠の軍勢に攻撃を仕掛けたが、ついに両軍は撤退したのである。

■義盛の再起

 三浦一族と義盛は、安房国猟島(千葉県鋸南町)で頼朝と合流し、上総、安房の豪族の助力を得ようとした。義盛は頼朝に「父や子孫が死んでも、頼朝に会った喜びはこの上ない」と述べ、「ぜひ頼朝様に天下を取ってほしい」と言ったあと、自分を侍所の別当に任じてほしいと懇願したのである。

 義盛は源平の争乱で大いに軍功を挙げ、打倒平家の立役者となり、念願の侍所別当に就任した。文治5年(1189)の奥州征伐後、義盛は梶原景時とともに藤原泰衡の首実検を行ったほどである。

 建久元年(1190)に頼朝が上洛すると、義盛は左衛門尉に任じられた。その2年後、義盛は梶原景時に侍所別当の地位を奪われたが、有力御家人として強い存在感を示したのである。

 建久10年(1199)1月に頼朝が亡くなると、義盛は13人の合議制の1人に加えられた。もはや古参の域に達していた義盛は、幕政にも影響を及ぼすほどの威勢を保持したのである。

■まとめ

 義盛が早い段階で頼朝に従い、幕府創設以来の功労者だったことは、誰もが認めるところであろう。頼朝が義盛を重用し、侍所別当に任じたのは、その証といえる。

 しかし、頼朝死後、強力な独裁制から解き放たれた御家人は、分裂して権力闘争を繰り返す。その点は、改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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