天才が遂に乗り出した、奇病「バク」と人々の戦い
人類の歴史は病気との戦いの歴史と言っても過言ではありません。
日本でも八丈小島ではバクと呼ばれている奇病が蔓延しており、多くの島民を苦しめてきました。
この記事ではバクとの戦いの軌跡について紹介していきます。
天才、佐々学
昭和20年代に入り、八丈小島での象皮病(バク病)の調査は新たな展開を迎えます。
大正期の調査は主に臨床診断と原因探究に焦点を当てていたものの、治療には直接結びついていませんでした。
さらに、リンパ系フィラリア症に対する有効な治療法が確立されるのは1950年(昭和25年)以降のことであり、それまでの八丈小島では効果的な治療や予防策が存在していなかったのです。
そんな中、八丈小島が再び日本の研究者たちの注目を集めたのは、太平洋戦争終戦後の1948年(昭和23年)のことでした。
東京大学付属伝染病研究所の佐々学(さっさ まなぶ)が中心となり、現地調査が開始されたのです。
佐々学は1940年に東京帝国大学医学部を卒業後、伝染病研究所(伝研)に所属し、その後大日本帝国海軍の軍医として勤務しました。
彼は戦時中にマレーシアのペナン島で熱帯医学を学び、特にマラリアやフィラリアなど、蚊を媒介とする感染症の研究に熱心に取り組んでいたのです。
ペナン島はかつてイギリスの植民地支配の拠点であり、そこでの医学的知見は日本の医師たちを遥かに凌ぐものでした。
佐々はその知識を吸収し、フィラリアやマラリアに関する先進的な考え方を日本に持ち帰ったのです。
彼が特に注目したのは「Species Control(対種駆除)」という概念で、これは蚊を駆除する際、すべての蚊を無差別に殺すのではなく、特定の病気を媒介する蚊の種のみを標的にするというものです。
このアプローチは、マラリアをはじめとする多くの蚊媒介性疾患の予防策として重要な役割を果たすものでした。
佐々はこの考え方を学び、日本での熱帯病対策に応用しようとしたのです。
1948年、佐々は東京都の職員から八丈小島に「バク」と呼ばれる風土病があるという情報を聞き、興味を持ちました。
バクという病名も八丈小島という地名も彼にとっては未知のものでしたが、「足が太くなる」という症状からフィラリア症を疑ったのです。
彼は急遽、まだ出発日が決まっていなかったアメリカ留学を控えていたにもかかわらず、八丈小島行きを決断しました。
この時期の八丈小島は依然として無医村であり、住民たちは象皮病に苦しんでいました。
佐々はフィラリアがこの病気の主因であることを明らかにしようと、現地での詳細な調査を実施しました。
彼は1948年7月、八丈小島に渡り、病気の実態を調査するとともに、フィラリア媒介の可能性がある蚊を採取し、その分布や種を特定することに努めたのです。
佐々の調査は、八丈小島における象皮病の原因解明に大きく貢献し、その後の治療法の開発にもつながる重要なステップとなりました。
彼の研究は、戦後日本における熱帯病研究の基礎を築き、また八丈小島の象皮病問題を再び全国的な注目の的にするきっかけとなったのです。
佐々、八丈小島上陸
1948年(昭和23年)7月、佐々と同僚の加納六郎は、八丈小島でのバク病の調査を決意し、東京竹芝桟橋から八丈島行きの貨客船に乗り込みました。
八丈島に到着した彼らは、八丈小島への定期船がひと月にわずか2便しかないことを知り、次の便までの5日間を八丈島で過ごすことになったのです。
八丈島の島民は、天下の東大の研究者がバク病の調査のためにやってきたことに驚き、恐ろしい病気としてバク病の話を佐々たちに語り始めました。
高熱を出し、足が醜く太くなる病気で、遺伝病ではないかと恐れられていたのです。
しかし、当時の医療知識ではフィラリア症の原因が十分に理解されておらず、島民の多くはこの病気を忌み嫌い、八丈小島には近づこうとしなかったのです。
定期船の出航日がやってきた朝、佐々のもとに急報が届きます。「アメリカ行きが決まったからすぐに戻れ」との内容でした。
しかし、佐々は迷いながらもバク病への好奇心が勝り、急報を破り捨てて八丈小島行きの船に乗り込んだのです。
八丈小島の船着場に到着すると、島の子供たちが彼らを迎え、興味深そうに話しかけてきました。
佐々が「バクを調べに来た」と答えると、子供たちは驚き、進んで荷物を運ぶのを手伝い、集落への道案内をしたのです。
村の名主に会うために案内を頼んだものの、当時の島民たちは「村長」という言葉を知らず、長らく使われていた「名主」という言葉にだけ馴染んでいたのです。
集落へ向かう途中、佐々はバク病の患者を初めて目にすることとなったのです。猛暑の中でも布団に包まり震えていた患者は、フィラリア症の典型的な症状である熱発作に苦しんでいたのです。
この症状は、島民たちの間で「ミツレル」と呼ばれていました。
名主の家に到着すると、集まった長老たちがバク病について語り始めました。
島のほとんどの人々が15歳までに発熱を経験し、何年にもわたって熱発作を繰り返した後、足が太くなり、皮膚が傷つきやすくなるといいます。
また、島民はバク病の原因を「水が悪いからだ」と信じていました。
集落には「バク池」と言われている池があり、その水が原因と考えられていたものの、最近各家庭に設置された水溜めを使い始めても病気はなくならなかったのです。
このような話を聞きながら、二人はコップの中のお茶に煮えたボウフラを見つけ、フィラリアがバク病の原因であると確信しました。
八丈小島での調査は、フィラリア症の理解と予防の重要性を日本に広める一歩となり、佐々は熱帯病研究の道をさらに進んでいくこととなったのです。