本能寺の変。謀反人と勘違いして殺された織田信澄とは何者なのか?
世の中には、勘違いされて酷い目に遭う人が少なからずいる。本能寺の変が勃発した際、織田信澄は岳父が明智光秀だったこともあり、謀叛人と勘違いされて殺された。信澄とは、いかなる人物なのか確認しよう。
信澄は、信勝(信長の弟)の子として誕生した。生年は諸説ある。永禄元年(1558)、信勝は信長の病気の見舞いで清洲(須)城(愛知県清須市)に行ったところを謀殺された。しかし、信澄らは殺されず、信長の配下の柴田勝家に養育されたという。
信澄は信長に従い、天正3年(1575)には越前一向一揆を討伐すべく出陣し、大いに軍功を挙げた。のちに信澄は、近江国高島郡内に所領を与えられ、信長から連枝衆として処遇されたのである。
以降も信澄は、大坂本願寺との戦争、有岡城の戦いに出陣し、宣教師から「大坂の司令官」と呼ばれるほどになった。天正9年(1581)に正親町天皇の臨席のもと、京都馬揃え(信長による軍事パレード)が行われると、連枝衆の信澄も行進したのである。
翌年になると、信長は土佐の長宗我部元親と関係が悪化したので、討伐することを決意した。その際、信澄は信孝(信長の子)が編制した四国討伐軍に従った。そして、いよいよ四国に渡海というときになって、信長が本能寺で光秀に討たれたのである。
信澄の妻は光秀の娘だったので、本能寺の変への関与が疑われた。『多聞院日記』や『家忠日記』には、そうした風聞が記録されている。信孝と丹羽長秀は信澄を疑い、討伐することにした。信澄は懸命に戦ったが、長秀の配下の上田重安に討たれたのである。
信澄の首は、信孝の命により堺(大阪府堺市)の付近に晒されることになった(フロイス『日本史』)。今もって、信澄が光秀と結託したのかは謎であるが、冤罪の可能性は高いといえるだろう。なお、信澄の墓は伝わっておらず、法名ですら明らかではない。
信澄について、『多聞院日記』には「一段の逸物也」と書かれ、高く評価されている。一方で、フロイス『日本史』には、異常なほど残酷であり、暴君だったとする。信澄の評価は大きく分かれるが、はたしてどちらが正しいのだろうか?