「マーベルは映画じゃない」論争が教えてくれる、新しい映画の楽しみ方とは何か?
マーティン・スコセッシ監督が自身の最新作『アイリッシュマン』の劇場公開及びストリーミング開始を前に、雑誌のインタビューで発言した「スーパーヒーロー作品は映画じゃない」というコメントが、依然として映画業界に波紋を広げている。始まりは去る10月4日、映画誌”エンパイア”の取材を受けたスコセッシが、以下のように発言したこと。彼は、「私はスーパーヒーロー映画は観ないね。観ようとしてみたことはあるけれど」と前置きした上で、こう続けたのだ。「上手くできているし、与えられた状況のもとで俳優たちはベストを尽くしているとは思う。でも、正直言って一番近いと思うものはテーマパークかな。あれは人間の感情、心理的な経験を別の人間に伝えようとする映画ではないよ」と。
これにすぐさま反応したのが、指摘されたスーパーヒーロー映画の一つ『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ(14~)のジェームズ・ガン監督だ。彼はツイッター上に、かつてスコセッシの『最後の誘惑』(88)が物議を醸したことを記した上で、次のように呟いたのだ。「スコセッシ監督は僕が最も尊敬する監督の一人。だから、人々が『最後の誘惑』を批判した時には憤りを感じたけれど、そんな彼が僕の映画をあの時と同じように批判しているのは悲しいよ」と。ガンのツイートをフォローしたのは『アベンジャーズ』(12)のジョス・ウェドン監督だ。彼は「『ガーディアンズ~』にはガンのハートと魂がどれだけ込められていることか!?スコセッシの意見にも一理あるとは思うけれど。。。」とコメント。より明確な意思表示をしたのは、今やスーパーヒーロー映画の顔となった俳優のロバート・ダウニー・Jrだ。彼はスコセッシ発言は「意味をなしてない」とした上で、「僕はそんなスーパーヒーロー映画の一部になれたことを誇りに思うよ。だって、このジャンルはまるで野獣のような勢いでライバルたちを蹴落として行ったんだから」と、胸を張った。アイアンマン役を演じたことで、2014年に経済誌”フォーブス”が発表した年間稼ぎ頭のトップ(年収7500万ドル)に躍り出たダウニーならではの発言だろう。また、ダウニーの共演者であるサミュエル・L・ジャクソンは、「映画は映画だよ。スコセッシ監督の作品を嫌いな人だっている。色々な意見があって当然さ」と、よりフラットな反応を示した。
すると、今月の4日、発信源のスコセッシ監督自身が自らのコメントに注釈をつける形で反論を行なった。そこには、スコセッシの映画人としての生い立ちと、芸術に関する考えが記されていて、これはこれで興味深い。以下は”ニューヨーク・タイムズ”に掲載された監督のコメントだ。「多くのフランチャイズ映画(スーパーヒーロー映画を指す)は、かなりの才能と芸術性を持った人々によって作られているのは知っている。それでも、私が興味を示さないのは、個人的な好みと気質の問題だ。もし、私がもっと若かったら、このような映画に興奮し、自分でも監督していたかもしれない。しかしながら、私は、そして、同じ世代の監督たちは皆、尊敬する映画作家たちから映画の美学と、感情と、精神的な啓示を受けながら、映画人として成長を遂げて来た。そうして、人間の複雑さと矛盾と、時には逆説的な性質と、それによって生まれる確執と愛情を学び、結果的には、自分自身と向き合うことになる。映画とは、言うなれば予期せぬ体験をもたらす芸術なのだ。だが、スーパーヒーロー映画にはなんのリスクもない。多くはシリーズものの続編かリメイクで、公開される前に厳密な市場調査と観客の反応とを基に、徹底的に吟味されるわけだから。」
これを受けて、遂に口を開いたのが、マーベル・スタジオの製作社長で、担当作品の総収益が83億ドルを超えるケヴィン・ファイギだ。ファイギは「映画の定義は人それぞれだし、芸術やリスクの定義も同じく。」とした上で、こう続けた。「マーベルはリスクを含んだ映画作りをしている。いい例が『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』( 16)だ。ここでは、シリーズで最も人気があるキャラクターであるアイアンマンとキャプテン・アメリカの神学的、肉体的対立を描いているし、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(18)のラストでは、キャラクターの半分を殺すことでシリーズを新たな方向へと向かわせた。これはリスクを取った映画作りだと思う」と。
すると、前後してスカーレット・ヨハンソンまでがこの論争に加わった。『アイアンマン2』(10)でブラック・ウィドウを演じて以来、アクション女優として進境著しいヨハンソンは、スコセッシが一方で指摘した劇場の問題について、「彼が言いたいのは、興行成績がいい映画に劇場が奪われた結果、多種多様な映画や、小規模な映画を公開する余裕がなくなったってことでしょう?」と確認し、さらにこうコメント。「改めて、人々がどのようにして映画を観ているのかということを考えさせられた。今やコンテンツを鑑賞する方法が変わり、いわゆるシネマ的な体験が、私たちのライフスタイルの変化に伴い、目覚ましい進化を遂げているということに。もしかして、今私たちが色んな方法で観ている映画たちは、昔は作られるチャンスすらなかったものなんじゃないかしら!?」と。つまり、フランチャイズだろうがアート系だろうが、次々と製作される膨大な映画たちが、劇場公開、もしくはストリーミング配信によってカバーされるこの時代のある意味で選択肢の多さに、感謝すべきではないのか?と、ヨハンソンは言いたいのだ。
恐らく、この考え方が、作り手の、ひいては映画ファンの今あるべき姿勢を言い当てているような気もする。因みに、去る11月5日に閉幕した第32回東京国際映画祭で『アイリッシュマン』とヨハンソン主演の『マリッジ・ストーリー』が上映され、どちらも満席の盛況だった。会場には話題作をいち早く観たい一般の映画ファンが多数押しかけ、映画とファンの出会いの場としての映画祭本来の意味が実感できた。そのヨハンソンは今年、ウォルト・ディズニー・カンパニー傘下に入った小規模アート系の権化、フォックス・サーチライト製作の『ジョジョ・ラビット』(19 同じく東京国際映画祭で上映)と、Netflix製作の『マリッジ・ストーリー』(19)の2本で、久々に賞レースに復帰しそうだし、つい先日、マーベルの『ブラック・ウィドウ』が2020年5月1日の日米同時公開に向けて始動したとしいうニュースが飛び込んできた。言わば、激変する映画の選択と鑑賞の方法に、意図するしないにかかわらず、最も上手く対応している俳優の1人が、スカーレット・ヨハンソンなのではないだろうか。
そして、もう一人は、論争の火元であるマーティン・スコセッシだ。最新作の『アイリッシュマン』はNetflixによって製作され、11月27日からのストリーミングが始まる前に、ニューヨークで劇場公開され、日本でも、映画祭で上映後、今週末から劇場にかかる。多くのハリウッド・メジャーが製作を断念した後に、Netflixが多額の製作費を出資し、世界配給権をゲットした作品は、スコセッシが長年こだわってきたマフィアの組織論と、犯罪者にも容赦なく訪れる老いと罪悪感を描いており、キャリア最高の傑作と言って過言ではない。何が映画で何が映画ではないか、また、芸術か芸術ではないかという論争に関係なく、才能ある人々が関わる魅力的な映画には必ず誰かが手を差し伸べ、いつかは様々な方法で市場に放たれていく。ヨハンソンやスコセッシのあり様から、そう思うのはあまりにも楽観的だろうか?
Netflixオリジナル映画『アイリッシュマン』
11月15日(金)より、アップリンク渋谷・アップリンク吉祥寺ほかで公開
11月27日(水)独占配信開始
Netflixオリジナル映画『マリッジ・ストーリー』
11月29日(金)より、アップリンク渋谷・アップリンク吉祥寺ほかで公開
12月6日(金)独占配信開始
『ジョジョ・ラビット』
2020年1月17日(金)より全国公開