コロナ禍と文化
世界オンライン句会
15年ほど前から行われている「日本再発見塾」という活動がある。第1回は岩手県葛巻町、第2回は滋賀県高島市、第3回は福島県飯舘村で開かれた。いずれもあまり名前も知られていない町だった。
町の人たちも口をそろえて「うちの町には何にもない」と言う。ところが、何回か行くうちに食べ物、景色、言葉などまさに「日本再発見」と言うべきものがいっぱいあることが分かる。今のSDGsのさきがけとも言える。だいぶ知られるようになったが、飯舘村の「までい」(ていねいに、心をこめてといった意味。「真手い」と書くこともある)など実にいい言葉だ。
その日本再発見塾の仲間が中心になって「世界オンライン句会」というプロジェクトを始めた(https://kyoto.haiku819.jp/)。
コロナパンデミックという世界中が直面する危機だからこそ「文化」の出番なのではないか。とりわけ海外の俳句人口は数百万人と言われ、ピカソもジョン・レノンもキアヌ・リーブスも絶賛した俳句を通して、多くの人が心を通わせ、コロナ禍を乗り越えていく力を得られるのではないか。これがこのプロジェクトの趣旨だ。
俳句は伝統的に自然を詠み、ギリギリまで削った言葉の背後に無限の思いを託し、また思いを巡らせる文芸だ。ピカソは「ハイカイ(俳諧)は、広々として自由だ」と言っている。さすがだと思う。
経済や政治の世界でSDGsがキーワードになっている今、このようなプロジェクトが世界からの日本再発見につながれば嬉しい。
文化は生きることそのもの
一年前、世界の国々が一斉にコロナ対策を打ち出した時、ドイツではメルケル首相、文化大臣が相次いで「文化は生きる上で必須のもの」といった発言をし、思い切った予算をつけた。それに対して日本政府は、当初、文化については余裕があれば、といった態度で対照的だった(最終的にはかなりの程度の対策費がついたが)。文化は「不要不急」扱いだったわけだ。文化に対するこの違いが、実は彼我の政治のレベルの差に表れていると思う。
あえて言えば、政治や経済は人々が良く生きていくための方法、手段だ。それに対して文化は、生きることそのものだと私は思う。身の回りの日用品や道具、衣服、住まい、人とのつきあいや遊び、喜怒哀楽、それらを表す言葉、表情、しぐさ・・・。それらが専門家によって洗練されると、デザイン、絵、音楽、演劇などアートと呼ばれるものになる(詳しくは拙著「ツルツル世界とザラザラ世界・世界二制度のすすめ」をお読みいただければ幸いです)。
何が「不要不急」か一概には言えないが、庶民が居酒屋でいい気分でしゃべっているほうが、政治家が料亭で密談しているよりはずっと「生きることそのもの」を感じる。政治家の密談はだいたいが「手段」だが、彼らの発言を聞いていると、自分たちの「会合」は庶民の「飲み」と違って重要だから特別扱いして当然という感じがありありだ。このあたりの感覚が「文化」に対するメルケル首相たちと日本の政治家の違いの底流にあるように思う。
「までい」に向けた世界の響詠
ところで、先に述べた「世界オンライン句会」をするためのクラウドファンディングが今月初めから始まった。私はこういった「文化イベント」で寄付を募るのは難しいと思ったが、数日で当初の目標(200万円)に達したのには正直驚いた。と同時に、政治家はいざ知らず、多くの日本人は、コロナ禍のような閉塞的な状況下での「文化」の大切さをよく心得ているのだと思った。
このクラウドファンディングの次の目標(ネクストゴール500万円)を達成すれば、飯舘村で句会をする予定だと言う。飯舘村は他の市町村と合併もせず、30年来「までい」に村づくりをしてきたにもかかわらず、原発事故による全村避難で村内居住者がかつての4分の1になっている。
今思うと「までい」な村づくりは、持続可能な暮らし、町づくり、SDGsのモデルだった。加えて、飯舘村は全国から「愛の俳句」を募集し、村内の沼「あいの沢」の周囲には佳作250句の句碑がある。ここには全村避難中も各地から人が訪れ、掃除や手入れをしている。これも言葉、文化の力だろう。
日本再発見塾、までいな村づくり、SDGs。その過程で起こった原発事故やコロナ禍。そんな時に人々を癒し、励ます言葉、文化。飯舘村を舞台にこれらのことがつながって見える。
クラウドファンディングの「ネクストゴール」が達成され、世界中から飯舘村に人が集い、までいな生き方に向けた世界の響詠が実現することを心から期待したい。いっそのこと“madei”がSDGsのコピーになればいい。
蛇足ながら、こういった地道な活動が多くの地で行われれば、4年に1回莫大な税金を使うオリンピックよりもはるかに小さなお金で大きい効果があるように思う。