住宅ローンを不要にする住み方改革のすすめ
アベノミクスの構造改革による成長戦略は、ついに働き方改革にまで及びましたが、おそらくは、その次は住み方改革になるのではないでしょうか。働く主体に着目されたように、住む主体を軸にして住むという機能が再構成されるとき、物質としての住宅市場の構造は抜本的に変わり、住宅ローンも従来の意味を失うはずですが、さて、そのとき金融機関はどうすべきか。
住宅ローンではなく住宅が欲しいのだ
住宅ローンを欲しい人など、いるはずがありません。欲しいのは住宅であって、住宅ローンではないのです。では、なぜ住宅が欲しいのかといえば、住む場所が必要だからです。翻って、住むという機能を中心にして考え直すと、住宅の所有は必須の要件ではなく、賃貸でよくなるかもしれません。賃貸のほうが合理的選択だということになれば、もはや住宅ローンは不要です。
さて、問題は、住宅ローンの申し込みがあったとき、銀行等の金融機関は、どう対応すべきなのかということです。普通に考えれば、単なる住宅ローンの申し込みとしてとらえて、貸せるか貸せないかの判断、貸せるときの金額と諸条件に関する判断だけを行えばいいように思えます。
しかし、真の顧客の利益の視点で徹底的に家族構成、所得、財産の状況等の諸事情を検討したときは、賃貸こそ最適な選択だという可能性はないのでしょうか。もしも、賃貸こそ最善の策という結論に達したら、貸せるにもかかわらず、住宅ローンの申し込みを断って、賃貸を勧めることこそ、真の顧客の利益に適うことにはならないでしょうか。
「貸さぬも親切」
「貸すも親切、貸さぬも親切」は、信用金庫業界の指導者であった小原鐵五郎の名言で、資金使途の正当性がなければ、仮に融資案件として信用金庫の利益になるものだとしても、最終的には顧客の利益にならない場合もあり、そのようなときは、顧客の意向に反してでも、貸してはならないという教えです。
貸せるにもかかわらず、住宅ローンの申し込みを断ることは、金融機関の短期的な利益に反することであるのみならず、顧客満足にも反することです。しかし、賃貸にするほうが顧客の家計の合理化につながり、かつ家族構成の変化や職場の変更にも適切に対応できるならば、それが真の顧客の利益に適うのであって、顧客にも、いずれ必ず、それを親切として身にしみて感じるときがくるのですし、それが金融機関の長期的な利益にもつながるのです。
つまり、顧客は住宅が欲しく、欲しいがゆえに住宅ローンを申し込むわけですが、顧客が家計の合理性を超えて一時の感情のもとで住宅を求めているとしたら、いわば衝動買いのようなことだとしたら、あるいは住宅は買うものだという思い込みに基づくものだとしたら、また賃貸との合理的な比較衡量を経ていないものだとしたら、理性的反省を促すほうが顧客の真の利益に適うかもしれないということです。
このように、真の顧客の視点で敢えて耳痛いことをもいうような経営姿勢を顧客本位といいます。顧客本位な対応は、そのときには、おせっかいと思われることも多いでしょうが、顧客の経験が増すにつれ、また理性的な反省の機会を得て、ありがたい親切だったと思ってもらえるときがくる、その信念が「貸さぬも親切」の理念であり、顧客本位の哲学です。
顧客本位
住宅ローンについて考える前に、金融における顧客本位について、もう少し考えてみましょう。現段階では、金融における顧客本位といえば、まずは金融庁が資産運用関連業務について策定公表している「顧客本位の業務運営に関する原則」を意味するのですが、原則の理念的背景に遡れば、ここに示された顧客本位の思想は、広く金融全般に、更には規制業全般に、最終的には商業全般に適用されなくてはならないものなのです。
では、広い意味での顧客本位とは何であるかというと、顧客の理性に訴えることで、顧客が自己の真の利益を合理的に認識できるようにすることです。つまり、顧客を賢くすることですから、逆に顧客の感性や心理的弱さに訴えることで理性的判断を停止させて不合理な行動を誘う顧客満足とは、正反対のものになるのです。
考えればすぐにわかるように、世の商売というものは、顧客満足をもとにしたものが多いのです。例えば、ギャンブルは、著しく顧客満足が高く、同時に顧客の真の利益を損なうものですから、著しく顧客本位に反しています。そして、多くの商売は、ギャンブルを極限として、その程度を緩めることで、顧客の真の利益に反してでも、心理的な顧客満足におもねることでなりたっているのです。
もちろん、この仕組みは資本主義経済の本質ですから、否定することはできません。否定できないというよりも、もしも、消費者が完全に合理的な行動をとることで、業者が顧客本位に徹底するようになれば、経済の劇的な縮小は避け得ないでしょう。資本主義経済の本質には、情念としての欲望の実現、非理性的で感性的な衝動、非合理で無駄な消費が抜き去り難く組み込まれているのです。
また、そもそも、顧客本位は、顧客の自由に介入するおせっかいなのですから、おせっかいが親切と受けとられない限り、つまり、おせっかいがおせっかいである限り、商業はなりたたず、商業がなりたたなければ、顧客本位の徹底といっても意味はありません。
こうして、経済は、感性的な顧客満足と理性的な顧客本位との間の微妙な均衡の上になりたっているのですが、少なくとも二つの理由により、その均衡を顧客本位へ傾けることも必要なのです。一つは、金融、医療、教育などの規制業においては、規制目的そのものが顧客本位を求めているということであり、二つは、日本のように社会が高度に成熟してくれば、顧客自身の問題として家計の合理化に向かわざるを得ないだろうということです。
規制の本質
では、規制業においては、なぜ顧客本位が求められるのか。
大学は、簡単に卒業させることにより、病院は、簡単に薬を出すことにより、銀行は、簡単にお金を貸すことにより、顧客満足を高めることができますが、真に顧客の利益を考えて行動するならば、学力がつくように卒業は難しくし、病院にかからないで済むように健康管理を求め、借金が増えないように家計の合理化を助言するべきでしょう。結果として、顧客満足に反する事態は避けられませんが、顧客本位とは、そういうものです、なにしろ、顧客に耳痛いことをいうおせっかいなのですから。
規制の本質とは、真の顧客本位が求められる分野において、顧客満足に反していても業がなりたつように業者を保護し、また、真の顧客本位が貫徹するように業者の行為に制限を設けることです。そのような規制が働いている分野の代表が金融であり、教育であり、医療なのです。
最近、金融庁がアパートローンやカードローンの拡大について警鐘を鳴らすのは、規制の立場からすることであって、そこに顧客本位からの逸脱の可能性を認めるからです。最終的には、真の顧客の需要を超えたローンの供給は、債務者の生活を破壊することもあり得ますし、その場合には、不良債権の発生によって金融機関自身の損失にもなるのですから、金融庁として看過できるはずもないのです。
住宅における量から質への転換
経済の成熟化によって、顧客本位が求められるというのは、住宅が代表的な事例でしょう。高度経済成長において住宅建築は極めて重要な推進力でしたが、今となれば、そのころに建てられた古家に高齢者が夫婦もしくは一人で住み続けていること、あるいは空き家になって朽ちるにまかされていることが大きな問題となっているのです。つまり、住宅の現況は、量的には過剰になってしまった一方で、質的には貧困なのです。
これは、住宅本来の機能である住むことの利便性を追求するよりも、耐久消費財として住み捨てられる住宅の所有を普及することに、産業政策の大きな力点が置かれてきたことの帰結です。そして、その住宅所有を金融面で支援してきたのが住宅ローンなのです。
今の日本において、住宅市場の合理化は重要な課題であって、未来へ向かって住み続けられる資産としての住宅への転換が求められています。即ち、機能として住宅に住むことと、資産として住宅を所有することとの分離を通じて、住宅を高品位化することが必要なのです。住宅に限らず、量から質へ、この転換は、日本経済の全ての分野における課題です。
結果として、住宅所有が法人化されて投資運用業として産業化されていけば、個人向け住宅ローンの必要性は低下していき、最終的には不要になるかもしれません。その裏には、住宅が欲しいという需要が後退して、ライフサイクルに応じて最適な住宅を借りて住みたいという需要に代替されていく生き方の転換があるわけです。
買っても借りても費用は同じ
では、根強い持家願望や、住宅価格上昇期待については、どうか。
金融理論的には、住むという機能において、経済効果が同じものは等価でなければならない以上、借りても買っても、費用は同じでなければなりません。もちろん、理論の要請として等価であるということは、事実として等価であることではなくて、等価になるように、住宅価格と賃料は、住宅ローンの金利等の多数の変数を介して、一定の合理的相互連関を保ちながら、均衡点を求めて動いているということです。
しかし、実際の経済においては、買うことと借りることの間に、あまりにも多数の変数が介在しているので、均衡しているかどうかも、また均衡がどう動くかも判断できません。ただ、説明を極めていけば、説明できない点が明瞭になっていくのであって、そこに、非経済的なもの、人間の理性的な側面よりも感情的な側面に依存するものがみえてくるでしょう。
非合理なものとは、自分の家を所有したいという持家願望や、住宅価格が上昇するという土地神話的な期待などです。こうした願望や期待のもとでは、当然に、買うことは借りることに対して割高になる、つまり、必ずしも合理的ではなくなる可能性があるわけです。
願望はどうしようもないかもしれません。しかし、価格上昇期待については、住宅の価格は劣化によって確実に低下していくので地価の上昇期待になるわけですが、それは、今日、都市部の限られた一角においてしか成立していませんし、人口予測からして、将来的にも、そう簡単に土地神話が復活するとも思えません。
金融制度改革
さて、住み方改革のためには、金融制度を改める必要があります。住宅ローンは、個人が住宅を買うこと、住宅は耐久消費材として最終的には価値がなくなること、故に、弁済原資として個人の所得しか評価しないことを前提にしています。従って、住み捨てられる耐久消費財から長期間使い続ける資産へと転換しようにも対応できません。
補完するものとして、無担保の増改築ローンや、リバースモーゲージ等もありますが、金融機関としては、それらを総合して根幹の住宅ローンの構造を抜本的に変えることで、住宅市場の構造変革を促し、また逆に、住宅市場の構造変革が金融機関の新たな収益源泉を作っていく、そのような好循環を通じて顧客の利便性を改善していかなくてはならないのです。
もちろん、家族構成等に応じて住み替えるような新しい住み方が定着するためには、先決問題として、住宅の高品位化による資産化、賃貸市場、住宅の転売流通市場の整備などが必要です。そうして、住む人の視点で住宅市場を改革すれば、借りても買っても費用は同じという合理性が確立してきて、利用者の利便性は上昇するのです。
金融機関が顧客の住むという需要に真正面から取り組めば、即ち、顧客本位を徹底すれば、現状のように自分の利益の方向で住宅ローンだけを営業することはできないはずで、住宅仲介も視野に入れなくてはならなくなります。金融制度は顧客の視点で設計されるべきなのですから、そうしたことも金融持株会社の業務範囲の見直しのなかで検討されればいいことです。