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【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼朝が絶大な権力を握る源泉となった幕府の訴訟システムとは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝の墓。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はいったん休憩で、座談会となった。今回は源頼朝が絶大な権力を握った幕府の訴訟システムについて、詳しく掘り下げてみよう。

■訴訟機関としての問注所

 鎌倉幕府の機関としては、政所(別当:大江広元)、侍所(別当:和田義盛)、問注所が置かれた。そのうち訴訟を担当するのが問注所で、長官たる執事に三善康信が任命され、9人の公事奉行人が置かれた。

 問注所が訴訟機関として設置されたのは、元暦元年(1184)10月のことである。訴訟そのものは原告たる訴人と被告たる論人を法廷で対決させ、その結果を問注記にまとめると、頼朝に最終的な裁決を仰いだのである。

 執事を務めた康信は京都の下級貴族出身で、太政官の史を務めていた。史の役割は訴論の結果を問注記にまとめるもので、初代の執事として、康信は経験も豊富で適任だった。

 康信が執事に選ばれたのは、頼朝の乳母の妹の子だったという関係もあった。京都から伊豆の頼朝にさまざまな情報を伝えていたという。それゆえ幕府が開設されると、真っ先に康信は招かれたのである。

■訴訟のシステム

 とはいえ、先述のとおり問注所は訴論の記録をまとめるだけで、最終判断は頼朝に任されていた。そのことを如実に示すのは、御前対決という頼朝の面前で対決をするシステムだった。

 その代表的な御前対決が、熊谷直実と久下直光の堺相論(土地の境界線をめぐる争い)である。頼朝は直光を支持したので、不当な判決に怒り狂った直光は逐電し、出家したというエピソードがある。

 つまり、幕府の訴訟システムは問注所が取り扱うものの、実際は記録を取ることが主眼であり、判決は頼朝に委ねられた。これこそが頼朝の絶大な権力の源泉となったのだ。

■まとめ

 頼朝が亡くなり、頼家の代になると、13人の合議制が採用された。一見すると公平なシステムのように思えるが、実際は北条時政が権力を掌中に収めるべく発案したものだった。訴訟を扱うということは、非常に重要だったことがわかる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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