【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝が整備した御家人制と侍所とは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」11回目では、源頼朝が着々と東国経営をする模様が描かれていた。今回は頼朝の東国経営について、深く掘り下げてみよう。
■東国経営に乗り出した源頼朝
治承4年(1180)に打倒平家の兵を挙げた源頼朝は、東国各地の豪族の支持を得て、富士川の戦いで平家と戦わずして追い返すことに成功した。その後、頼朝はそのまま上洛せず、いったん東国の反対勢力(佐竹氏ら)を討伐した。
この時点において、頼朝はおおむね東国の主だった豪族を配下に収めた。志田義広、上総広常のように、のちに叛旗を翻す者も出たが、頼朝はただちに彼らを討伐し、盤石な体制を固めたのである。
同年12月、頼朝は鎌倉に邸宅を建築し、そこに簡単な家政機関を設けた。これは統治を行うための私的な政庁にすぎなかったが、のちの鎌倉幕府の原型となった。
■豪族との関係
同時に頼朝は、打倒平氏を共通の目的とする東国の豪族と私的な主従関係を結ぶことになった。東国の豪族は頼朝の「家人」となったが、それはただの「家人」ではなかった。
彼らが「鎌倉殿の御家人」、「鎌倉御家人」、「関東御家人」などのように、「御」という敬称が付けられたのは、その証である。やがて「御家人」は、身分的な呼称として定着するようになった。
御家人を統括する機関が侍所である。侍所の主たる職務は、御家人の統制と鎌倉市中の警備だった。13世紀後半頃になると、検断沙汰(刑事裁判)という職務も担った。
侍所の長官は「別当」といい、初代の別当は和田義盛が務めた。侍所の次官に相当するのが「所司」であり、初代の所司は梶原景時が務めたのである。
■頼朝がしようとしたこと
頼朝は以仁王の令旨を根拠として、諸国の在庁や荘園公領の支配権があると主張した。その主張を支えたのは、彼ら武士が持つ武力だった。とはいえ、頼朝の支配権は全国津々浦々ではなく、いまだ東国の限られた地域に止まっていたのが現実である。
頼朝は旧来の国司の目代などによる支配を否定し、実力によって東国の支配を成し遂げようとした。それはあくまで私的なレベルに止まっていたかもしれないが、旧来の国家権力を否定して築いた、独立した一地方政権だったといえよう。
頼朝の強い独立意識、旧来の国家権力の否定は、年号にもあらわれていた。治承5年(1181)7月、養和に改元されたが、頼朝はこの新しい年号を使用しなかった。養和2年(1182)5月には寿永に改元したが、やはり頼朝は新年号を使わなかった。
■むすび
頼朝が治承4年(1180)の末頃から、東国の豪族を支配下に収め、東国に一地方政権を樹立しようとしたのは注目に値する。それは、旧来の国家権力の否定でもあった。この時点では、まだ鎌倉幕府の誕生とは言えないかもしれないが、その基盤は固まったのである。