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安倍元総理銃撃事件、山上容疑者の心理分析は正しいのか?:犯罪心理学者やメディアの専門性と責任

原田隆之筑波大学教授
(写真:ロイター/アフロ)

重大事件、メディア、そして専門家   

 重大事件が起きたとき、メディアは事件の背景や犯人の動機について、専門家に分析を委ねようとする。それが国民の関心事であるならば、国民の知る権利に応えるという意味において、それはメディアの重要な仕事である。

 その際、専門家として意見を求められるのは、犯罪心理学者、精神科医、元警察官、弁護士などである。私自身は、犯罪心理学者として、これまでも多くのメディアから、さまざまな事件が起きるたびにこのような依頼を受けてきた。

 そして、その時点でできる限りアクセスできる事実やデータ、そして専門知識を用いて、事件の背景や容疑者の心理、さらには再発防止策などについて意見を述べるのも専門家の責任の一端であると思い、可能な限りそれに応えてきた。

 しかし、メディアの側にも専門家の側にも、そうした責任の範囲を逸脱した報道や態度が見られることがたびたびある。そこには、メディア側と専門家側、それぞれが今後考えるべき問題がたくさん潜んでいる。

 実は、犯罪心理の「専門家」問題に関して苦言を呈するのは、何もこれがはじめてではない。これまで大きな事件があるたびに、同じようなことが繰り返され、そのたびにさまざまなところで批判をしてきた(たとえば「座間9遺体事件」マスコミはまだ凶悪犯罪をアニメのせいにする気か)。しかし、それが一向に改善されることなく、何度も繰り返されているのが現状である。

安倍元総理事件後の報道番組

 元総理が銃撃によって殺害されたという戦後最大ともいえる事件ともなれば、もちろんメディアは連日大きくこの事件を報じている。そして、容疑者の動機の解明や犯行に至った心理の分析などについても、多くの時間が割かれている。

 私自身も、いくつかの新聞やテレビ局から取材を受け、何度かは生放送にも出演した。出演する前には、担当ディレクターなどと事前に意見交換をして、納得ができる場合に限って出演をするようにしている。当然、意見が折り合わずに出演を断ったことも何度かある。

 どのような場合に断るかと言えば、やはり番組側が描く「ストーリー」ありきで、それに沿った発言を求められたようなとき、そして意見交換をしても一向にその「ストーリー」を改める気配がないようなときである。

 しかし、これは例外といってよい。テレビ局のスタッフは、少なくとも私の知る限りでは、自分たちの責任や社会的影響力をきちんと自覚し、真剣に番組作りに向き合っている。

 テレビ局の人は視聴率しか考えていないという印象を持つ人も多いかもしれないが、プロと呼ばれる人はそんな単純なことのみで仕事をしているわけではない。視聴率ももちろん大事だろうが、自分の仕事に誇りをもって、よい番組を作りたいという一心で仕事に向き合っている人が大多数であると思う。

 私が出演した番組でも、最初は「どのような心理だと思いますか?」などとナイーブに聞かれることがあっても、「現時点では何も確定的なことは言えません」「わからないことはわからないと言いますが、それでいいですか」などと意見交換をし、それで納得してもらえたために出演を決めたのである。

専門家の責任

 一方、事件の後、テレビだけでなく、新聞や週刊誌、ウェブメディアやSNSなどでは、「専門家」と呼ばれる人が、さしたる根拠もなく思い込みで無責任な発信をしているのを目にすることが多い。

 重大事件であるため、世間の関心が大きいのは当然である。だからといって、「視聴者サービス」のつもりなのか、あるいは無責任なメディアに迎合して名前を売りたいのか、わかりもしないはずのことを、わかったように断定的に述べる人が多いのは、とても残念なことである。

 わからないことをきちんと「わからない」と言うこともまた、専門家の重要な仕事であり、責任のはずだ。

 実際、この事件は発生からわずか10日ばかりしか過ぎていないし、まだ断片的なことしかわからない。その多くは警察からの情報であるし、容疑者が自白したとされる内容にすぎない。

 警察は事件の核心に触れる部分はまだ外に出していないかもしれないし、容疑者だって嘘をついているかもしれない。こうした前提に立って、確からしさの高いことと、疑問の残る部分を慎重に見きわめていく必要がある

 この事件では、旧統一教会との関係性がクローズアップされており、それは時間の経過とともに、容疑者の親族の証言、容疑者のものと思われるツイートや手紙などが次々に出てきたことに加え、旧統一教会側も一部それを認めたこともあり、この部分に関する確からしさが徐々に積み重なっている。

 とはいえ、これもまだ現時点では、動機に関する「仮説」の1つにすぎない。たとえば、なぜ安倍元総理を標的にしたのか、教団との長い確執や怨念のなかで、なぜ今この時期なのか、などについてはわからない部分が多い。そして、ほかにもまだ別の動機があるかもしれないし、ないかもしれない。したがって、それはまだ「仮説」の1つにすぎないことや、わからない点が多いことを踏まえた分析をする必要がある。

容疑者の心理

 特に一番わからないのは、容疑者の心理についてである。犯罪者は、一般の人々からすると、にわかには信じがたいゆがんだ考え方(認知)をすることがあるし、感情や行動の統制に大きな問題がある場合もある。これらを丹念に分析することは、犯罪心理学者の仕事の1つであり、事件の核心に迫る「ブラックボックス」の解明につながるものだといえる。

 しかし、現時点では、容疑者のこれまでの言動や供述(したとされる内容)をもとに「推測」するしかない。あるいは、犯罪理論や過去の犯罪ケースなどをもとにした一般論から「演繹」するしかない。そして、その際は、事実やデータとこれらの推論を混ぜないことが何より大切であり、それが科学的態度というものである

 心理学者の仕事として、国民やメディアから求められることに応えるためには、「わからない」ことを「わからない」と言うだけでは、逆に不信感を抱かせてしまうということにもなるだろう。

 したがって、そのような場合、ある程度の推論を述べることは許されると思うが、その際には「推測です」「一般論です」と明確に断ったうえで、意見を述べることが大切であると考えている。

 曖昧な情報をもとに、わからないことをあたかも事実であるかのように「専門家」がメディアで断定的に言ってしまえば、その影響は非常に大きい。特に、「専門家」自身の側にあらかじめ「ストーリー」があって、それに断片的な情報を取捨選択したり、推測を混ぜたりしてはめ込んでしまうことは、きわめて横暴で非科学的な態度であり、到底看過できるものではない。

 今回の事件で見られた例としては、「苦しい幼少期少年時代を過ごした人は、ゆがんだ特権意識をもって犯罪に至りやすい」といった「分析」があった。容疑者の過去が悲惨なものであったことは同情に値するし、それを招いた旧統一教会の責任はきわめて大きい。しかし、だからといってそこから容疑者の犯行に至る心理を断定的に「分析」し、それがあたかも犯罪の原因のすべてであるかのように述べるのは軽率である。

 犯罪心理学は科学である。繰り返しになるが、科学である以上、事実やデータに基づいて、事実と推測を混ぜずに現象を理解するものであるべきだ。

 犯罪においては、悲惨な家庭環境が原因になることもあるが、そうでないこともある。そして、それが原因になる場合であっても、本人のパーソナリティ、価値観、あるいは神経生理学的要因など、複雑で多様な要因の相互作用を丹念に分析すべきである。

 それをせずに「苦しい幼少期少年時代を過ごした人は、ゆがんだ特権意識をもって犯罪に至りやすい」などと単純化して述べるのは、偏見も甚だしいことである。それはまた、悲惨な過去を乗り越えて生きている人々への侮辱であり、人間の可塑性を無視した粗雑な決定論である。

メディア側の責任

 メディア側にも責任がある。まずは、専門家の人選である。過去に連絡を取ったことがある人、テレビ受けのしそうな人、番組の描く「ストーリー」に乗ってくれる人などを安易に選ばないというのは、最低限の責任である。

 さらに、専門家の基準があいまいなことも問題である。残念なことであるが、専門家というのは、いくらでも「自称」ができるため、「自称専門家」「似非専門家」がたくさんいる。

 メディアなどでは、過去にその分野の一般書を書いている人が選ばれることが多いように見受けられるが、これは選択基準が甘すぎる。一般書などは、出そうと思えば誰でも出せるし、本が売れたからと言って、それは著者の専門性が高いこととイコールではない。

 少なくとも、その「専門家」なる者が、その分野の学会に入っているのか、学会発表や査読論文があるのかなどは、今の時代、さしたる手間もなく調べられることである。

 特に重要なのは査読論文である。その分野の論文が1本もない人は、どう考えても専門家などとは呼べない。しかし、そのような人が「専門家」として大手を振っている現状がある。その人がどんな論文を書いているか、書いていないかなどは、researchmapなどの信頼の置けるサイトで、数秒もあればすぐに検索することができるのに、なぜそれすらしないのだろうか。

 テレビなどに出ている専門家は信用できないということが、一般の人々からも、研究者コミュニティの中でも言われることがある。しかし、研究者の責任として、論文を書くことや教育に携わることも重要だが、社会貢献や社会的責任を果たすことも同様に重要である。大学などでは、大学教員に対して、教育、研究、社会貢献の3つの責任が求められることが普通である。

 しかし、その社会貢献は、あくまでも研究業績などの専門性があってはじめて可能になることである。

 犯罪心理という分野には、残念ながら単なる「犯罪マニア」としか言えないような「自称専門家」「似非専門家」が数多く跋扈しているのが現状である。だからこそ、メディアには慎重な姿勢が求められるし、「専門家」本人にも専門性と責任が求められる。

 犯罪者と直接関わったこともなく、論文すら書いたことのない人が、手持ちの貧弱な知識と「ストーリー」を組み合わせて、ニュース番組で自説を開陳するということが日常的に横行するようなことは、けっして看過できない事態である。

 それには、当の「専門家」自身にも、出演させたメディアの側にも大きな責任がある。それは何より被害者である故人に対して、そして視聴者に対して、さらには犯罪心理学という学問への冒涜である。

筑波大学教授

筑波大学教授,東京大学客員教授。博士(保健学)。専門は, 臨床心理学,犯罪心理学,精神保健学。法務省,国連薬物・犯罪事務所(UNODC)勤務を経て,現職。エビデンスに基づく依存症の臨床と理解,犯罪や社会問題の分析と治療がテーマです。疑似科学や根拠のない言説を排して,犯罪,依存症,社会問題などさまざまな社会的「事件」に対する科学的な理解を目指します。主な著書に「あなたもきっと依存症」(文春新書)「子どもを虐待から守る科学」(金剛出版)「痴漢外来:性犯罪と闘う科学」「サイコパスの真実」「入門 犯罪心理学」(いずれもちくま新書),「心理職のためのエビデンス・ベイスト・プラクティス入門」(金剛出版)。

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