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21世紀枠候補出そろったセンバツの話題先取り(その2) 駒大苫小牧の"強気"

楊順行スポーツライター
昨年優勝の大阪桐蔭も出場が確実。史上3校目の春連覇がかかる(写真:岡沢克郎/アフロ)

「桐蔭さんは確かに能力は高いですが、大ざっぱな感じ。つけいる部分はありました」 

 11月の、明治神宮大会。タレント集団・大阪桐蔭に2対4で敗れながら、駒大苫小牧・佐々木孝介監督は強気だった。

 大ざっぱとは、たとえばこういうことだ。5回に奪った2点目は、2死一、三塁からの四球では一走がスタートを切っており、つられた桐蔭の捕手・小泉航平が思わず二塁に送球したすきに、三走・小林海斗が機敏に決めた本盗だ。

「走塁は自分たちの判断で、とふだんから徹底しています」(佐々木監督)

 秋の北海道大会を制し、4年ぶりのセンバツ出場が確定的な駒苫。道大会では4試合すべて二ケタ安打の計31得点を挙げ、代打や途中出場の選手が活躍するなど、采配も光った。「課題もあるが、このチームはまだまだ伸びます」と佐々木監督も手応えを感じている。

 その佐々木監督は2004年夏、北海道勢として駒苫が初めて優勝したときの、主将にしてショートである。駒苫は翌年夏も連覇し、3連覇に挑んだ06年夏も、決勝で敗れたとはいえ、早稲田実と引き分け再試合を演じ、球史に名を刻んだ名チームだ。佐々木が監督に就任したのは、駒澤大卒業後の09年8月のことだった。

歴史的偉業は、無情の雨天コールドから始まった

 実は佐々木は初優勝の前年、03年夏も、2年生で甲子園の土を踏んでいる。この年、センバツにも初出場していた駒苫にとって、春夏通じて4回目の甲子園。だがそこまで、白星はひとつもない。なんとか1勝を、が合言葉だった。その1回戦、倉敷工に8対0と大量リード。だが4回の攻撃途中、台風10号の影響で豪雨が襲い、結局降雨ノーゲームとなってしまう。そして翌日の仕切り直しは2対5の敗退。8点という大量リードで、1度は見えかけた甲子園初勝利が、するりと逃げたわけだ(ちなみにこの試合を甲子園のスタンドで見ていたのが、当時兵庫・宝塚ボーイズの田中将大少年である)。その田中が入学し、日本ハムが北海道に本拠地を移した04年夏。駒苫は、ふたたび甲子園にやってきた。

「(1年前の敗戦は)ずっと重たいものがありました。勝たせてやれなくて悪かった、と選手たちに頭を下げた。あの悔しさを晴らすために、甲子園に来たんです」(香田誉士史監督・当時)。

 当時の佐々木孝介キャプテンも、こんなふうに語っている。

「(去年の)倉敷工戦は、代打で出て三振。悔しい思いをしていたので、あの負けから全国制覇を目ざしてやってきました」

 宿舎には、前年倉敷工戦で敗れた3年生部員全員の連名の手紙が届いていた。そこには、ベンチ入り18人各自に、熱いメッセージがしたためてあった。初戦(2回戦・対佐世保実)の前日、佐々木は長い時間をかけて全文を読み、ナインに聞かせている。その、佐世保実戦。すかっと晴れた青空そのままに、駒苫は7対3で快勝した。初出場から58年、ようやくたどり着いた甲子園1勝だった。

 その時点で、原稿の骨子は固まりつつあった。昨年のノーゲームの悔しさを晴らし、よくぞ手にした記念すべき1勝……そんな感じ。なにしろ、白星を手にしたとはいえ、次の3回戦の相手は日大三なのだ。01年夏には、当時の最高チーム打率で全国制覇している強豪で、ようやく1回戦ボーイを脱却したばかりの駒苫とは、ちょっと格が違う。いくら佐々木が「全国制覇を目ざす」(強気は、そのころからだったのだ)といっても、この時点では過去85回の大会で優勝旗はいまだ白河の関さえ超えておらず、道勢優勝にはリアリティーが薄い。

 当然、駒苫の注目度も、さほど高くはなかった。試合終了後の取材は当時、通称インタビュー通路といわれるエリアで行っていたが、人気チームや注目選手がいると、記者が殺到してラッシュ時の電車ほどになる。だが、その時点での駒苫クラスなら、さほど混雑していない。だから選手とも、雑談交じりでのんびりと取材ができる。当時のスコアブックの余白をながめてみると、「先輩からもらったお守りが北海道の決勝で破れた」とか「九州出身の監督は、いまだに北海道の冬に慣れていない」とか「北海道は夏休みが短く、もうすぐ2学期。勝ち残るほど、学校を休めます」とか、あまり原稿の役には立たないようなことが書いてある。

グラブの網がぶっ壊れて……

 おもしろかったのは佐々木だ。ある試合ではイニングの途中、ショートの守備位置から一目散にダグアウトに駆け戻ったことがあった。どうしたの……と試合後に聞くと、

「いや、グラブの網がぶっ壊れて(笑)」

 と素朴に答えてくれ、大笑いしたものだ。そんなのんきな会話も、駒苫がさほど注目されていなかったからだ。

 ところがところが駒苫は、日大三に7対6と競り勝ってベスト8に進出したから、試合後のインタビュー通路はにわかに人口密度が増してきた。さらにだれもが、“いくらなんでも無理だろう”と思った準々決勝でも、涌井秀章を打ち込んでまたも“超ブランド”横浜を撃破。準決勝で東海大甲府に勝つと、決勝では春夏連覇を目ざした済美と13対10という壮絶な打撃戦で頂点に立つのである。

 チーム打率・448という新記録までおまけにつけた、北海道勢初めての全国優勝。佐々木自身も、5試合で打率・421を記録している。その佐々木監督が、指揮官として挑む2度目の春。夏は2回の全国制覇がある駒苫だが、春はまだ頂点に届いていない。

「僕たちの時代がそうだったように、規格外の練習をするしか勝つ方法はありません」

 佐々木監督、力強く宣言した。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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