富士山・宝永噴火の49日前に発生した宝永地震で金山の衰退
富士山には、有史以来、大きな噴火が3回あります。
延暦19年(800年)からの山頂付近からの噴火では、多量の降灰を周辺にもたらし、古代の東海と関東を結ぶメインルートの足柄道は埋没したため、箱根道がメインルートとして開かれています。
貞観6年(864年)から始まった北西山腹からの噴火では、流れ出た溶岩が青木ヶ原を作り、「せのうみ」と呼ばれた大きな湖を精進湖と西湖に二分しています。
そして、宝永噴火です。
宝永噴火の49日前の宝永地震
宝永噴火は、宝永4年11月23日(1707年12月16日)朝に南東山腹で噴火し、その日のうちに江戸にも多量の降灰があり、宝永山が山腹にできています。
11月は、夏に比べて、上空の偏西風が強くなっており、その風に乗って江戸まで短時間で火山灰が届いたのです。
この宝永噴火は、49日前に発生した宝永地震の余震が続くなかでの噴火で、地震と火山の関連性を強く意識させた地震です。
宝永4年10月4日(1707年10月28日)に、遠州沖を震源とする東海地震と紀伊半島沖を震源とする南海地震が同時に発生したと考えられている宝永地震は、東海道から四国にかけて、死者2万人以上、倒壊家屋6万戸、津波による流失家屋2万戸と大きな被害が発生しました。
福島県沖で地震が発生し、1.4メートルの津波が発生しましたが、このように大きな地震が発生すると、近くの火山の噴火を心配する人がいます。
気象庁(前身の中央気象台も含めて)では、関東大震災や東日本大震災など、大きな地震が発生すると、富士山について特別観測を実施してきました。また、各機関が設置した観測機器によって様々な監視が行われている現在でも、特に目立った変化はおきていません。
しかし、富士山は、1000年単位でみると、絶えず煙があがっている山から平穏な山、溶岩を流出させる山から爆発的な噴火の山と、様々な顔を持つ山です。
安倍川の金な粉餅
静岡名物の安倍川餅は、つきたて餅にきな粉をまぶしたものに、白砂糖をかけたものです。
徳川家康が、安倍川の近くの茶店で、店主からきな粉を砂金に見立た「安倍川の金な粉餅」を献上したことに喜び、安倍川餅と名付けたという伝承があります。
そして、白砂糖が貴重で珍しかった江戸時代、安倍川餅は東海道の名物となって珍重されています。
徳川家康が喜んだのは、安倍川が金と密接な関係がある川であるからです。
安倍川上流の金山
安倍川は、南アルプスの大谷嶺からほぼ一直線に南下し、徳川家康の時代は駿府と呼ばれた静岡市の市街地を流下して駿河湾にそそぐ河川です。
安倍川上流にある梅ケ島の日影沢金山は、今川氏の金山として有名で、享禄年間(1530年頃)には大量の砂金を産出し、たびたび朝廷に献上しています。
その後、武田信玄が占領しますが、天正3年(1575)に織田・徳川連合軍が武田軍を長篠の戦いで勝刊し、徳川のものとなります。そして、この年に発見された金鉱脈によって、それまでの砂金採取から坑道堀に変わり、慶長年間(1600年頃)には多くの金を産出して、駿府の金座で慶長駿河墨書小判が作られました。
日影沢金山の金堀人足は金堀衆と呼ばれて身分は高く、特殊技術も持って戦場にも参加しています。そして、この土地で亡くなると生国に向けて墓が建てられました。
徳川家康が駿府に在城の時代、最も栄えた金山といわれた日影沢金山は、鉱脈がつきはじめたことに加え、宝永地震の影響が直撃します。
大谷崩れと消えた金山
阿倍川最上流部は、古くから崩れていましたが、大谷崩(おおやくずれ)と呼ばれる面積1.8平方キロメートル、高度差800メートルという大きな山崩れとなったのは、古文書の記載から宝永地震からといわれています。
大谷崩れは、長野県の稗田山崩、富山県の立山鳶山崩とともに、日本3大崩れと呼ばれるほど、壮大なものです。
明治の文豪・幸田露伴の次女で随筆家の幸田文は、72歳のときに大谷崩の迫力に圧倒されたことから、その後、全国の山崩れ・地すべり地帯を訪ねて取材し、「崩れ」を書いています。
宝永地震により大量の土砂が5キロメートル下流の赤水滝まで一気に流下しています。そして、大雨のたびに土石流が発生し、土砂は安倍川の中流から下流へと流れて堆積し、被害が拡がっています。村から金山へ至る道が通れなくなったり、坑道に水が入るようになったために水抜作業で経費がかかるなどで採算がとれなくなり、安倍川上流から金山は消えています。
阿倍川上流から金山は消えましたが安倍川餅は残っています。昭和天皇がお召し列車で静岡を通過するときには安倍川餅をたびたびお貫い上げになられるなど、現代も安倍川餅は静岡を代表するお土産となっています。