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「バファローズ」、「阪急」、「ブルーウェーブ」。複雑な球団史が刻まれた「ヤクルト」との日本シリーズ

阿佐智ベースボールジャーナリスト
23年ぶりに日本シリーズのスコアボードに並んだ「B」と「S]の文字。

 先週末、京セラドーム大阪での日本シリーズにバファローズが帰ってきた。この球場では昨年も日本シリーズが行われたが、ここをホームとしたのは東京に本拠を置く巨人だった。コロナ禍でのスケジュール変更により、ホームスタジアムである東京ドームが使用できなかったことによる苦肉の策だった。オリックス球団の日本シリーズ進出は1996年以来25年ぶり。「オリックス・バファローズ」が京セラドームで日本シリーズを戦うのは無論のこと初めてである。ただし、ここでは先代のバファローズ、つまり大阪近鉄バファローズが20年前に日本シリーズを戦っている。その時の相手は奇しくも、今回と同じヤクルトだった。加えて言うと、この年、2001年の近鉄も今年のオリックス同様、前年度最下位からのリーグ優勝を遂げての日本シリーズ進出だった。

「近鉄バファローズ」の最後の挑戦を葬り去った若松スワローズ

20年ぶりに行われた「バファローズ」の日本シリーズ(京セラドーム大阪)
20年ぶりに行われた「バファローズ」の日本シリーズ(京セラドーム大阪)

 この時の両軍の監督は近鉄・梨田、ヤクルト・若松という、ともに自身、現役時代にチームの初優勝を経験した生え抜きという「似た者同士」。現在の高津ヤクルト監督はクローザーとしてタイトルを獲得している。シーズン終盤、シーズン最多本塁打(当時)を記録したタフィー・ローズに132打点で打点王を獲得した中村紀洋らを揃えた豪快な打撃で劇的な逆転勝利を演じた近鉄の「いてまえ打線」に球界一の頭脳と呼ばれた古田敦也捕手を中心とするヤクルトバッテリーがどう対処するかに注目が集まった。

 大阪で行われたのは第1、2戦。開幕戦の先発は、ヤクルトが順当にエース・石井一久(現楽天監督)をもってきたのに対し、近鉄はエース左腕前川勝彦ではなく、シーズン途中加入で4勝しか挙げていなかった助っ人投手、ジェレミー・パウエルを立てた。近鉄はこれが裏目に出て、2回に先制を許すと、6回にはアレックス・ラミレスに3ランを打たれ、とどめを刺された。

 翌日の第2戦には、ヤクルトは最多勝投手・藤井秀悟、近鉄はシーズン後半に一軍の戦力となった岩隈久志を先発に立てた。後のメジャーリーガーもこの時はまだ高卒2年目。早々に先取点を許すと、近鉄は小刻みな継投に出た。4回表までに4対0とされた近鉄だったが、その裏に中村のソロホームランが出ると、ここからいてまえ打線に火がつき、失点を重ねながらも6回にチームリーダー・水口栄二の3ランで追いつくと、8回裏にローズも3ランを放ち、ヤクルトを突き放し1勝1敗とした。しかし、この後近鉄はヤクルトの本拠・神宮球場で3連敗。この勝利が大阪近鉄バファローズ唯一の京セラドーム大阪(当時の名称は大阪ドーム)での日本シリーズでの勝ち星となった。

 その後、近鉄球団はオリックス球団と合併。「オリックス・バファローズ」の傍系球団として球史に名を留める「消えた球団」となった。そして20年の時を経て、「バファローズ」がパ・リーグチャンピオンとして京セラドームに帰ってきた。ドームの8割方を埋めたファンの多くはレプリカユニフォームを身にまとっていたが、その中には、オリックスのチームカラーであるブルーではなく、赤い近鉄バファローズのものも多く見受けられた。

「無敵の勇者」の黄金時代に引導を渡した「ポールの外を通るホームラン」

第3~5戦の行われる東京ドーム
第3~5戦の行われる東京ドーム

 今回のシリーズのヤクルトのホームゲームは東京ドームで行われる。コロナ禍によるプロ野球のスケジュール変更により日程が後ろにずれ、本拠・神宮球場が学生野球のため使えなくなったためだ。これと同じ状況になったのは、1978年の阪急対ヤクルトのシリーズだった。ヤクルトは、この時もやはり巨人の本拠であった後楽園球場を使用している。言わずもがな、後楽園球場は東京ドームの、阪急はオリックスの前身である。43年の時を経て、両者の対決が「後楽園」に帰ってきたのである。

 当時、阪急ブレーブスは黄金時代を謳歌していた。1975年から日本シリーズ3連覇。74年、75年には、それまで何度も日本シリーズで退けられていた「球界の盟主」・巨人を倒して日本一に輝いている。この時期の阪急を、球史に残る「無敵のチーム」とするファンは多い。かたやヤクルトはこの年、球団創設28年目にしての初優勝。日本シリーズ初出場のチームが「無敵の勇者」を倒すなどとは誰も思わず、阪急のシリーズ4連覇を疑うものはほとんどいなかった。ところが先に王手をかけたのはヤクルト。それでも、後楽園での第6戦で阪急が12対3で勝利すると、だれもが最終戦もこの最強軍団が制するものと思っていた。

 そうして迎えたシリーズ第7戦。ヤクルトは今シリーズ4度目の登板となるエース・松岡弘、阪急はシリーズでは無類の力を発揮し、このシリーズの第3戦でも完封勝利を挙げていた足立光宏を先発投手としてマウンドに送った。

 球史に残るシーンは6回裏に訪れた。1-0とヤクルトリードの場面で4番大杉勝男がレフトに放った大飛球はそのままスタンドに吸い込まれた。セ・リーグ所属の富澤宏哉の腕を回してのホームランのジャッジに阪急側が猛抗議。史上稀にみる1時間19分という長い中断となった。この長時間の抗議により、膝に故障のある足立は、それ以上の投球が不可能となった。ヤクルトは試合再開直後に助っ人・チャーリー・マニエルが、そして8回にはリリーフのマウンドに立ったエース・山田久志から大杉が2打席連続のホームランを放ち優勝を決めた。

 この抗議の責任を取ってシリーズ後、辞任した阪急・上田監督は後年、「ポールの外を通るホームランもあるんだということを知った」と大杉が足立から放った打球について述べている。時は移ろい、「歴史的事件」の舞台だった後楽園球場は東京ドームへと姿を変えた。この日本初のドーム球場を見届けると、名門・阪急ブレーブスは姿を消した。

 東京ドームでの試合、予想に反してオリックスファンの姿が目立った。しかし、彼らが身にまとっているレプリカユニフォームの「ORIX」の文字からは、あの「ポールの外を通るホームラン」がもはや歴史の彼方にあることを感じざるを得なかった。

野村「ID野球」の前に屈したイチローと「頑張ろう神戸」

 時は移ろい、ブレーブスは「オリックス」を冠するようになり、やがてその名を「ブルーウェーブ」と変えた。名門惜しむ声は止むことがなかったが、それを封じ込めるニュースターが現れた。そう、イチローである。鈴木一朗という無名のバッターは、1994年、仰木彬が監督に就任するとたちまちのうちにスターダムにのし上がり、翌年にはチームを日本シリーズの舞台に導いた。

 この年、1995年のシリーズでオリックス・ブルーウェーブと対したのは、野村克也率いるヤクルトだった。データを駆使したID野球を標榜する野村がシリーズ制覇のためのターゲットとしたのは、もちろんイチローだった。この若きヒーローは、2年連続の首位打者に加え、打点王、盗塁王にも輝いていた。この天才打者の封じ込めを最優先したヤクルトは、4勝1敗で2年ぶりの日本一に輝いている。この年始に大震災に見舞われながらリーグ優勝を遂げ神戸市民の希望の星となったオリックスは、シリーズ開幕戦を本拠・グリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)で迎えながらも、この本拠に帰ることなく敗れ去ったが、翌年もペナントレースを制し、ここで日本一の瞬間を迎えている。

 今シリーズは、先述のプロ野球の日程変更を受け、第6、7戦は神戸で行うことになっている。オリックスとしては、「聖地」・神戸で再び日本一の胴上げを行いたいだろうが、シリーズの流れはヤクルトに大きく傾いている。

 オリックスは神戸に帰ることができるのだろうか。それは、今日の第5戦にかかっている。

(写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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