【ハッケン!土浦まち歩き】土浦城の縄張りを歩くその4~平地に築かれた土浦城は水に守られた「水城」
土塁が守る西側に引き続き、今回は土浦城の東側を歩きます。南側に面した土浦城の正門「大手門」と並行した位置にある「搦手門(からめてもん)」は、「大手門」の近くに位置するのに裏門にあたるのだそう。江戸時代前期の土浦の様子が描かれた絵図を頼りにその謎に迫ります。
城下町ならではの通りを歩いてみる
裏門から城内へ入る前に、城下町ならではの道の様子を見て回ることに。上の写真は、土浦城址(亀城公園)に面した駅前から続く亀城通りから一本入った路地。「筑波銀行」ビル横の道を入ったところです。
「この通りはカーブがきつくなっています」。そう話すのは土浦市立博物館の学芸員の西口正隆さん。今回のハッケンまち歩きのナビゲーターです。
西口さんが指さしているのは、「筑波銀行」ビル脇の通り付近を描いた江戸時代前期の地図。
土浦城周辺の町を描いた「復刻 土浦城絵図―常陸国新治郡土浦城図―」(土浦市立博物館)によると、ほぼ直角に曲がるところがあります。
地図に照らし合わせてみると、この辺りが直角に曲がった道の名残になります。
これは敵からの攻撃を緩和させるための防御策のひとつで、城下町ならではの風景でもあります。カーブした道を挟むように水路があり、さらに侵入しづらい道をしているのが土浦城を守るための独特の施策ともいえます。
土浦城の歴史を後世に伝えた「瀧泉寺」の和尚
カーブした道の先には「瀧泉寺(りゅうせんじ)」というお寺があります。
創建は1406年(応永13年)、元々は武家屋敷が造られた勝軍木郭(ぬるでくるわ)という地にありましたが、1605年(慶長10年)もしくは1619年(元和5年)頃に土浦藩主の命によって現在の地に移建されたと伝えられています。
境内に掲げられた案内板によると、瀧泉寺は土浦城との縁が深く、江戸時代前期の藩主である土屋政直(つちやまさなお)により1691年(元禄4年)に祈願寺と定められ、城内の守護繁栄と歴代城主の尊霊を祈祷してきたとあります。
また、江戸時代に瀧泉寺の住職を務めた祐鏡(ゆうきょう)和尚は、『土浦城記(つちうらじょうき)』という土浦城を支配した大名などを記した書物を作ったことでも知られています。当時の記録は少なく、土浦城の歴史を物語るに貴重な文献として後世に伝えられています。
桝形に築かれた土浦城の裏門「搦手門の跡」
「筑波銀行」ビルのある大通りに戻り、向かいの通りへ向かいます。
「ここが土浦城の裏門にあたる搦手門(からめてもん)の跡です」と、西口さん。
「え、ここが?」と言葉を発してしまうくらい、民家が並ぶ小さな通りです。通りを少し入っていくと確かに土浦市が指定する史跡であることを示す石碑が立っています。
西口さん:絵図によると、今日の亀城通りには水路が通っていました。搦手門は、水路の上に設けられた門。桝形(ますがた)といって90度の直角に曲がって裏門につながるように設計されています。
桝形をした搦手門は、周囲を白壁のようなもので覆われていました。それは敵が襲来したときに壁の内側から攻撃をできるようにするため。門は2段階になっていて、先の写真の石碑のあった部分にひとつ、もう一か所は90度曲がったところにあったそうです。
搦手門は、正門にあたる大手門の東側へ同一方向に設けられた裏門で、全国的にも珍しいといわれています。
平地に築かれた土浦城は水に守られた「水城」
搦手門を通過してさらに進むと土浦城の本丸・二の丸へと繋がります。こちらが現在の亀城公園入口にあたる高麗門(こうらいもん)。元々は前川口(現在の中央大祢整形形成外科駐車場付近)に建てられたもので、近代以降たびたび移築されたといいます。
高麗門は朝鮮半島の門を参考として造られたことが語源のようです。
高麗門の特徴は、雨風で門扉が傷まないように内側にも直角に屋根がついていること。また、門としては屋根が小さく遮るものが少ないため、監視がしやすいなどの機能性にも長けていました。
高麗門から城内に入ると水堀があって、道や門だけではない念入りな防御施設であったことを実感します。
土浦は、水と緑に抱かれた町。低地にあることから水害に見舞われることも少なくありませんでしたが、逆にその水の恵みを生かした「水が守る城」を築くことができたともいえます。
東崎分に設けられた北門の跡、土塁に見る西側の守り、そして今回の東側の搦手門とご紹介してきました。次回はいよいよ正門である大手門と南門の跡地を歩きます。土浦城址にちなんだかえるかわる子さんのイラストエッセイもお見逃しなく。