笠上黒生駅で解体待ち? 丸ノ内線で活躍した元営団2000系、銚子電鉄1000形デハ1002
8年ぶりの新型車両となる「シニアモーターカー」22000系の導入で、注目を集める千葉県の銚子電鉄。22000系の2本目の導入も予定され、4編成体制となることでの増便にも期待が高まるが、その陰で今まさにその生涯を閉じようとしている車両も存在する。営団地下鉄(現:東京メトロ)から譲り受けた1000形デハ1002だ。
銚子電鉄1000形は営団地下鉄2000形を譲り受けたもので、平成6(1994)年8月15日付でデハ1001、デハ1002の2両が竣工した。デハ1001は昭和35(1960)年10月帝国車輛製の銀座線用2046、デハ1002は昭和34(1959)年11月日立製の丸ノ内線用2040を種車としている。
営団2000形は片運転台であることから、単行でも走行可能なようにそれぞれ2033と2039の運転台を接合して両運転台に改造された。銀座線・丸ノ内線と銚子電鉄では軌間や集電方式が異なるため、機器やパンタグラフは営団日比谷線3000形、台車は富士急行5700形のものを使用している。また、機器の一部は営団銀座線1500形のものを転用した。
1000形は銚子電鉄にとっては初の全鋼製カルダン駆動車で、それまでの旧型車に替わって主力車両として活躍を始めたが、本来であれば茨城県の日立電鉄に譲渡されるはずの車両であった。日立電鉄では在来車両置き換えのために営団2000形を24両譲り受けており、銚子電鉄1000形となったのはそのキャンセルによる注文流れ品である。
日立電鉄線は平成17(2005)年4月1日で廃止となっており、もしそちらに譲渡されていれば2両の活躍もそこで終わっていただろう。しかし、運命のいたずらにより銚子電鉄で長く活躍を続けることとなった。
当初銚子電鉄オリジナルカラーを纏っていた1000形だが、晩年は営団時代の復刻塗装となった。デハ1001は『桃太郎電鉄』ラッピングを経て銀座線カラーとなり、デハ1002は『鉄子の旅』の漫画家・菊池直恵氏考案の塗装を経て丸ノ内線カラーとなっている。デハ1002の前身である2040は、昭和43(1968)年5月から平成5(1993)年7月まで、丸ノ内線の方南町支線で長らく活躍していた。
営団での30年に渡る活躍ののち、銚子電鉄の主力となった1000形だが、非冷房ということもあって、伊予鉄道から譲り受けた冷房車の2000形、3000形の入線によって活躍の場を狭めていく。
平成27(2015)年1月10日にはデハ1002が引退。廃車は免れたものの、事業用車となり、仲ノ町車庫での入れ替えなどに用いられることとなった。屋根上には線路際の樹木の剪定に使われる櫓も設置されている。
残ったデハ1001も3000形のデビューに先立ち、平成28(2016)年2月28日のイベントをもって引退。車体を2分割して千葉県松戸市の昭和の杜博物館に移送され、再結合の上で保存されている。
デハ1002はデハ1001の引退後も事業用車として残存したが、塩害の影響もあって車体の老朽化が著しく、屋根も一部落ちて満身創痍といった姿を晒していた。さる10月1日に住み慣れた仲ノ町車庫を去り、笠上黒生駅構内に移動した。
笠上黒生への移動の数日後には、運転台部分の窓がビニールシートで覆われた。さらにテールライトは外川方はガムテープで覆われ、銚子方は完全に撤去されており、さらに痛々しい姿となっている。笠上黒生は銚子電鉄における「車両の墓場」のようなところで、過去にはデハ101とデハ301も笠上黒生で解体された。また、22000系の導入に伴って引退したデハ2001とクハ2501も笠上黒生で分割の上、解体工場に陸送されており、デハ1002もこのまま解体されることが予想される。
昭和34(1959)年11月の製造から65年、平成6(1994)年8月の銚子電鉄からも30年。経営難による廃止危機など銚子電鉄が一番大変だった時期を見届けた古蒙の生涯もあとわずか。立入禁止場所に入らないよう気を付けた上でその最後の姿を見守ろう。
(10/18 22:17追記)
不正確な情報であるとご指摘を受けた記述について、削除いたしました。
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