樋口尚文の千夜千本 第56夜「ジョギング渡り鳥」(鈴木卓爾監督)
ドラマとアクシデントをかけめぐる気まぐれな領空侵犯
人間そっくりのモコモコ星人は、マザーシップが鳥に襲撃されてぶっ壊れたので、やむなく地球の場末の町に潜伏して、撮影録音クルーを装ってその町の人々の行動を観察記録しはじめる。鈴木卓爾監督らしい合気道的な演出術のもと、そのキテレツな顛末が漸進的に語られてゆくのだが、いやこれはとんでもないものを観てしまったという感じである。
面白いか面白くないかで言えば、もうこの面白さは途方もない域にあるのだが、正直に言えばこれはもう通り一遍の物語の面白さなどとは全く切れた作品であり、何かそういう次元のおかしさなんてどうでもいいように思えてくるのだった。だから、これからの観客たちに怖気づかれると困るので余り言いたくないのだが、粗悪な商業映画に瞳を毒されきった絶望的な観客が観たら、何ひとつ面白さを発見できないかもしれない。しかしもしも観客がこのモコモコ星人の発する見えざる映画電波の波長に運よく身をゆだねることができたら、千載一遇の映画体験をしてしまった幸運を寿ぐばかりであろう。それでいて本作は観る者を選ぶ映画的なスノビズムとは無縁の素朴に開かれた作品だ。いやいっそ映画的な知見で重装備して構えて観るシネフィルなんかよりも、ただ映されたものを虚心に受け止めようとする小児のような瞳のほうが本作の最も重要な上澄みの部分を感受できるような気もする。
極めてひらたく言えば、これは映画というものが生まれいずる地点を、ジョギングの速度で走りながら実践的に考え続ける作品である。ニワトリかタマゴかの喩えで言うなら「映画が先か物語が先か」というのは映画を生み出す上で作り手の誰もが(意識的であれ無意識的であれ)直面せざるを得ない問いなのだが、小津安二郎が吉田喜重に送った「映画はドラマだ、アクシデントではない」という言葉を引き合いに出すなら、確かに映画という構造物は明晰な思考にのっとって築かれるもので、偶然のアクシデントで出来上がるものではない。もっともこの場合の小津は、撮影所の端正な映画作法を壊していったヌーヴェル・ヴァーグの勢い重視を戒めて「自由なノリだけでは充実した映画はこしらえられない」といささか極端な物言いに出た感もあって、アクシデントが映画を作るはずはないにせよ、それが映画的思考を活気づけて映画の魅力を増殖させていった例はいくらだってある。『日本春歌考』や『地獄の黙示録』や『監督失格』といった作品は、映画づくりの営みがぶつかってゆくアクシデントをどう映画にとりこんでゆくかという、映画外の事象と映画的思考の拮抗が作品を豊饒にしていったに違いない。
『ジョギング渡り鳥』で何より素晴らしいのは、淡々と自我を消して日々の労働をこなしながら、裏では特異なかたちで他者との関係性を探っている主人公の女性が渡り鳥にあこがれてジョギングをしている一方で、走りで名をなしたもうひとりの女性が誰に頼まれた訳でもなく中継所を設けてランナーたちにお茶を配って、やはり他者とのつながりを求めている、というベースの設定だ。この女たちのいわく言い難いややこしさ、他者へのおそれと自己防御本能が強いのに、それでも他者との関係を求めずにはいられない感じ、その自意識の強烈さや他者との障壁は、彼女たちがなかなか露骨にぶつかり合わないがゆえにモヤモヤを高じさせ、一見何も起こっていないようでいて「ドラマ」の胚胎に満ちている。何やら感情の爆弾が不発のままくすぶり続けているような感覚の連続がいい。
ところが、そんな不自由な人びとの「距離感」ゆえにぐずぐずと「ドラマ」が湧き上がってきそうな地帯に、くだんのモコモコ星人の撮影部隊が闖入する。自意識や葛藤から切れた、ひたすらに自由で「距離感ゼロ」で、「アクシデント」づくしのモコモコ視点が紛れ込んでくるや、人間たちのひりひりとせめぎあう、ささくれだった感情の「ドラマ」はやおらぐだぐだに解放されてゆく。魅力的な細部がもたらすのは「え?これは何の話だっけ」「これって誰の視点だっけ?」みたいな「アクシデント」的感覚で、われわれはおもむろにこの切実に煮詰まる「ドラマ」と飄々とした渡り鳥じみた「アクシデント」の拮抗に「伴走」することになる。
その渡り鳥ぶりのしなやかさは、いわゆる「メタ映画」的な生硬さとも無縁で、「あれ?モコモコ星人のドキュメントかと思いきや、それを見ている鈴木卓爾監督の視点まで介入してきたぞ」と、何やら映画的思考のマトリョーシカ状態をふわっと軽快に見せられたりするのだが、かと思えばまたさらっと自意識の檻でハリネズミのようにもんどり打つ「ドラマ」モードに戻ったりする。この自由さたるや、もう到底モコモコ星人描写の悪ふざけを笑ってなどいられないアナーキーな(今ふうに言えば「自由過ぎる」!!)領域に足を踏み込んでいる。このライトさと気安さのオブラートにくるまれた、しかしすさまじき「未知への飛行」によって、本作は娯楽の領空から逸脱してはるか北上する。
そんなこんなで、これはちょっと観客に対していいものを見せ過ぎではないか、これだときっと猫に小判になるのではないかと思わず心配になってしまうのだが、でもついついここまで掘り下げてしまいました、もはや欲も得もなくつい本格サービスでやってしまいました、という感じの本作は、ドラマかアクシデントか、アートかエンタテインメントか、といったあらゆる空域を侵犯して、あっちゃこっちゃに飛んでゆく映画の渡り鳥なのである。鈴木卓爾監督は『私は猫ストーカー』でも『楽隊のうさぎ』でも、その映画の非中心化と増殖について試みを繰り返してきたが、今回はそれが重層的な狙いのもといっそう野心的に展開される。
重層的な意図で訳がわからない域にまで踏み出しているという意味では、これは鈴木卓爾流の『幻の湖』とでも言いたい面白さをたたえているのだが、ただ『幻の湖』と決定的に違うのは、『ジョギング渡り鳥』の欲張りな逸脱が全て(脱力ギャグじみた種々の韜晦がもはや煩わしいほどに!)澄明な方法意識に貫かれているという点である。そんな訳で、「なんだかわからなーい」と言って、この自由気ままに飛翔する映画の渡り鳥に置いてきぼりにされたままというのは、観る側としては余りに芸がなく、もったいないことである。