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七夕賞である馬を応援する男と凱旋門賞を巡る不思議な縁

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
10年凱旋門賞に挑戦したナカヤマフェスタ

研修でエルコンドルパサー出走の凱旋門賞を観戦

 今週末、福島競馬場で七夕賞(GⅢ)が行われる。これに出走を予定しているトーラスジェミニ(牡5歳、美浦・小桧山悟厩舎)を函館から見守る予定の男がいる。凱旋門賞(GⅠ、フランス)にも挑戦したその男の名は堀内岳志。昨年、調教師試験に合格。現在、技術調教師の彼が、調教厩務員として最後に担当したのがトーラスジェミニだった。今回は彼と凱旋門賞を巡る数奇な運を紹介しよう。

今週末の七夕賞に出走予定のトーラスジェミニと堀内岳志技術調教師
今週末の七夕賞に出走予定のトーラスジェミニと堀内岳志技術調教師

 堀内が生まれたのは1973年10月5日の大阪。現在47歳だ。中学3年の時、親の仕事の関係で茨城に引っ越すと、高校の同級生に美浦トレセンで働く子が多数いた。

 「競馬に興味を持ち、テレビでも見るようになりました」

 アイネスフウジンが活躍していた時代だった。オグリキャップのラストランに感動すると、競馬の世界で働いてみたいと考えるようになった。その後、大学に入学したが4年で中退した。

 「学歴より経験を積む事を優先し、北海道の牧場に就職しました」

 牧場時代の1999年、研修で渡欧。エルコンドルパサーが挑戦した凱旋門賞を観戦する機会に恵まれた。

 「一緒に研修した人が『息子が馬を曳きます』と言われていました。エルコンドルパサーの佐々木幸二調教助手のお父様でした」

 モンジューの2着に善戦する様を見て「いつか自分もここで馬を曳きたい」と思った。

1999年凱旋門賞に挑戦したエルコンドルパサー。向かって右が佐々木幸二調教助手(写真はサンクルー大賞典制覇時)
1999年凱旋門賞に挑戦したエルコンドルパサー。向かって右が佐々木幸二調教助手(写真はサンクルー大賞典制覇時)

偶然からエルコンドルパサーと同じ厩舎に

 2001年に競馬学校に入学。翌02年、美浦トレセンで働き始めた。更に翌03年、不思議な巡り合わせからエルコンドルパサーの二ノ宮敬宇調教師(当時、廃業)の下で働く事となった。

 「叔母の職場に偶然、二ノ宮先生のお兄様が働かれていました。そんな縁があって紹介していただき、働く事になりました」

 するとその7年後の2010年、願いがかなった。当時、担当していたナカヤマフェスタが宝塚記念(GⅠ)を優勝。凱旋門賞に挑む事になったのだ。

2010年、ナカヤマフェスタと堀内。フランスの厩舎にて撮影
2010年、ナカヤマフェスタと堀内。フランスの厩舎にて撮影

 「エルコンドルパサーの凱旋門賞を見て、いつかここに挑戦したいと思った願いがかないました。それもエルコンドルパサーと同じ二ノ宮先生の馬で、蛯名(正義騎手=当時、現調教師)さんが乗ってくださる。それだけで奇跡だと思い、感動しました」

 結果もエルコンドルパサーと同じ2着。これには「着差(アタマ)が着差だっただけに悔しい」と唇を噛んだ。

 しかし、現在は次のように述懐する。

 「凱旋門賞挑戦なんてそうそう出来る事じゃありません。ナカヤマフェスタは翌年もフランスに遠征し、本当に沢山の経験をさせてもらいました。感謝しかありません」

 ステイゴールド産駒という事で難しい面もあり、調教拒否や騎乗者を落とすなどのアクシデントもあった。しかし、後に調教師となる堀内にとってはそれらも含めて「血となり肉となった良い経験」だったという事だろう。

フランスでのナカヤマフェスタ(右端)。曳いているのが堀内で乗っているのは佐々木。左端で曳いているのは蛯名正義騎手(当時、現技術調教師)
フランスでのナカヤマフェスタ(右端)。曳いているのが堀内で乗っているのは佐々木。左端で曳いているのは蛯名正義騎手(当時、現技術調教師)

調教師を目指す中、出合った馬

 18年には二ノ宮が廃業。堀内は自らの意思で小桧山悟の下で働く道を選んだ。

 「小桧山先生とはとくに面識はありませんでした。外から見ていて雰囲気の良い厩舎と感じたので、厩舎を訪れて働かせてくれるように直談判し、雇ってもらいました」

 働き始めるとすぐに「ひ弱な第一印象の2歳馬」を任された。

 「気ムラな面もあってレースに集中しないからなかなか結果を残せませんでした」

 それがトーラスジェミニだった。

 「でも、使う度に常識にかかるようになり、4戦目で初勝利を挙げると、2歳のうちに2勝してくれました」

トーラスジェミニと堀内。右端が小桧山調教師
トーラスジェミニと堀内。右端が小桧山調教師

 東京スポーツ杯2歳S(GⅢ)で骨折。1年以上の長期休養を余儀なくされたが、人間万事塞翁が馬。翌19年に帰厩すると、見違えるほど成長していた。

 「気分良く走れれば力を出し切れる。そんな馬になってくれました」

 休み明け3戦目で勝ち上がると、翌20年の春にはオープン入り。夏には巴賞(オープン)を勝利するまでになった。

 この馬と一緒に成長していったのが何を隠そう堀内自身だった。小桧山厩舎に移ってすぐに小桧山から調教師になるように尻を叩かれた。そんなボスの全面協力の下、難関に挑戦すると3回目の受験となった昨年、見事に合格した。

 そして、まるでその合格を祝うようにトーラスジェミニがディセンバーSを優勝した。

トーラスジェミニと堀内
トーラスジェミニと堀内

 「自分が小桧山厩舎の厩務員をしていたのは昨年の暮れまでだったので、彼を担当したのはそのディセンバーSが最後でした。連闘で臨む予定だった有馬記念(GⅠ)を除外になり、彼ともお別れになりました」

 現在は技術調教師として来春の開業に備える毎日を送っている。平日は「顔と名前を憶えてもらえるように」牧場を巡り「セリも全て行った」と言う。そして、週末は競馬場で小桧山について現場で実践に臨みつつ、レース当日の手順を教わるなどしている。

 「トーラスジェミニの事は現在でも応援しています。好メンバー相手に厳しい競馬だった安田記念(GⅠ)でも、先行勢の中では最も粘ってそう大きく負けませんでした。自分が最後に担当した特別な馬なので、勿論、今週末の七夕賞でも応援します!!」

 堀内が短冊に願い事を書くのなら「トーラスジェミニの七夕賞制覇」と「自らの管理馬での凱旋門賞挑戦」と記すだろう。果たして1つの願いは今週末にかなえられるだろうか? 注目したい。

18年、東スポ杯2歳S出走時のトーラスジェミニと堀内
18年、東スポ杯2歳S出走時のトーラスジェミニと堀内

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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