女性脚本家の奮闘を描く感動作公開。「女性●●」という職業表現に考える、無意識に伝わる固定観念
今週末に公開が始まる『人生はシネマティック!』は、あの「ダンケルクの戦い」を映画に仕立てようとした人々の奮闘を描く感動作。映画愛にも溢れ、マスコミの間でもひじょうに評判が高いイギリス映画だ(本当にすばらしい。心からオススメしたい作品です!)。
レビューや作品紹介を書きながら、ふと疑問に思うことがある。この映画に限らないが、女性を主人公にした作品で時々感じることだ。
『人生はシネマティック!』のチラシなどに記されている公式の紹介文はこうだ。
まさにそのとおりの説明である。1940年のロンドンで、政府のコピーライター部で秘書をしていたカトリンが、映画の脚本家に抜擢される物語だが、もしこの主人公が男性だったら、執筆経験ゼロの男性脚本家とは書かれず、単に脚本家となっていただろう。おそらく「脚本家」とした場合、多くの人が男性をイメージするからで、舞台となった時代、この環境で脚本家になった女性が珍しかったから、という受け取り方ができる。実際に女性であるゆえのエピソードも多く散りばめられている。
脚本家もスパイも芸人も、基本は男性なのか
言葉の表現で、そのキャラクターの性別を伝えることは重要かもしれないが、多くの職業で「男性●●」とは書かれず、「女性●●」と書かれるパターンは多い。
先日公開されたシャーリーズ・セロン主演の『アトミック・ブロンド』もキャッチコピーは、こうなっている。
もし男性のスパイだったら、最強の男スパイとは表現されないはず。「これまで映画に登場した女性のスパイは珍しく、その中で今回は最強ですよ」という意図なのだろう。
脚本家にしても、スパイにしても基本は男性という前提を感じるわけで、実際にそのとおりかもしれないが、社会に向けた文章で、女性●●と書くときに、つねに考えさせられる不平等感である。
映画以外でもたとえば、女芸人、女性芸人という言葉は一般的でも、男芸人、男性芸人というのはあまり聞かない。女性議員、女子刑務所なども同じようなパターンだ。単に区別するための表現かもしれないが、各領域で、なんとなく女性は少数派だから特殊という風潮も感じられる。言葉で表現する仕事をしながら、できるだけ「女性」という言葉を使わず、職業と性別の固定観念を外していきたいと思うのだが、これは考え過ぎだろうか。
それとも筆者が男性だから、感じることなのか。
同じように最近公開された女性が主人公の『女神の見えざる手』では、ロビイストという一般的にはイメージしづらい職業だったため、女性ロビイストという表現はほとんど使われていない。すでにタイトルに女神とあるので、女性主人公なのは一目瞭然ではある。そう考えると「女神」はあっても「男神」という表現もない。
さらに言えば、女性の俳優は「女優」と表現されることが多いが、男性の場合は「男優」も使われるものの、「俳優」が多い。演技の仕事は性別に関係なく存在するので、俳優という言葉にも無意識な男性優位が感じられる。以前、あるベテランから「私のことは女優と呼ばないで、俳優と呼んでください」と言われたことがあった。
性別を明示する必要性は、どこまであるのか
話を最初の「女性脚本家」に戻すと、現実に、21世紀に入っても女性の脚本家や映画監督は少数派である。21世紀のアカデミー賞でも脚本賞で2003年度のソフィア・コッポラ(『ロスト・イン・トランスレーション』)、脚色賞で2005年度のダイアナ・オサナ(『ブロークバック・マウンテン』/共同脚本)と、女性の受賞者は2人だけ。監督賞に至っては、2009年度にキャスリン・ビグローが『ハート・ロッカー』で史上初めて受賞しており、やはり「脚本家」「映画監督」となると一般的にイメージされるのは男性である。
性別によって向き/不向きがある職業があるのは事実かもしれない。表現が関係する職業には「男性ならでは」「女性ならでは」という感性が必要かもしれない。しかし、キャスリン・ビグローの監督作品を観るとき、「女性監督が撮った」という固定観念を多くの人が忘れるのも、これまた事実である。しかしビグロー以外の作品となると、やはり一般的には「女性監督の作品」として論じられるケースがひじょうに多い。
そんなことに思いを巡らせると、そもそも、「男優賞」「女優賞」に分けることも必要なのか。突き詰めると疑問は増えるばかりである。
かつて存在した婦人警官、看護婦などという単語は現在、使われなくなった。無意識な表現で、その職業が偏った性別に向いているとイメージさせること……。今後も考えさせられる課題である。