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前日に大怪我をして乗れなかった重賞に、1年越しのリベンジを目指す騎手の物語

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
昨年、凱旋門賞を観戦するためパリロンシャン競馬場を訪れた際の鮫島克駿騎手

名手の父に憧れてジョッキーに

 今週末、行われるアイビスサマーダッシュ(G3、新潟競馬場、芝1000メートル)の有力馬にライオンボス(牡5歳、美浦・和田正一郎厩舎)がいる。昨年の覇者である同馬の手綱をとるのがデビュー6年目の鮫島克駿。彼の生い立ちを振り返り、騎乗出来なかった昨年、そして現在の気持ちを語っていただいた。

今週末のアイビスサマーダッシュで連覇を目指すライオンボス(撮影;八田和馬)
今週末のアイビスサマーダッシュで連覇を目指すライオンボス(撮影;八田和馬)

 1996年10月18日生まれの現在23歳。父・克也、母なぎさ、3人兄姉弟の末っ子として育てられ、幼少時はサッカーに興じた。しかし……。

 「幼稚園の時に撮ってもらった動画みると『サッカー選手か騎手になりたい』と答えていました。その後、小学校低学年の時はジョッキー一本に絞っていました」

 祖父は佐賀競馬の調教師、そして父は名騎手。そんな家庭に育ち、自然とそう考えるようになっていたと語り、更に続ける。

 「僕が5歳だった2001年に父がワールドスーパージョッキーズシリーズで優勝しました。それを見に行った時の記憶は今でも鮮明に残っています」

WSJSでの口取り。左から4人目の子供が克駿。その右が兄・良太。左から2人目が母で1番右が佐賀の調教師だった祖父(写真提供;鮫島克駿
WSJSでの口取り。左から4人目の子供が克駿。その右が兄・良太。左から2人目が母で1番右が佐賀の調教師だった祖父(写真提供;鮫島克駿

 小学5年になると小倉競馬場で乗馬を始めた。

 「祖母と母に送り迎えをしてもらい、中学を卒業するまで休まずに通いました」

 小倉の乗馬では、これもまた後に騎手になる野中悠太郎と切磋琢磨した。その後、10歳上の兄・良太と同じJRA入りを目指し、12年に競馬学校に入学。15年に卒業すると栗東・浅見秀一厩舎から騎手デビューを果たした。

小倉競馬場で一緒に乗馬を習った野中悠太郎と(19年撮影)
小倉競馬場で一緒に乗馬を習った野中悠太郎と(19年撮影)

 その際「ここからが勝負だぞ」と口を開いた父から、次のように告げられたと語る。

 「皆、努力をしているから、成功するためには人一倍やらないとダメだぞ!!」

 克駿自身、父や兄の努力する姿を見て、厳しい世界なのは理解していた事もあり、その言葉を胸に刻んだ。

 初勝利はデビュー6戦目。自厩舎のタピエスという馬だった。

 「競馬学校生として厩舎実習をしていた時に入厩した馬で、トレセンで初めて跨ったのが自分でした。ゲート試験も僕がやり、思い入れがあったので勝てて嬉しかったです」

 1年目は39勝。JRA賞最多勝利新人騎手賞を受賞した。

 「途中までは同期の加藤翔太の方が勝っていました。新人賞は最初の年しか獲れないので、何とか逆転したいと色々考えたのが良かったかもしれません。ただ、減量もあったし、良い馬に沢山乗せていただけて、馬に勝たせてもらったレースが多かったのも事実です。自分自身は未熟でした」

JRA賞最多勝利新人騎手賞を受賞した
JRA賞最多勝利新人騎手賞を受賞した

一念発起し、出合ったスピード馬

 デビュー3年目の17年の暮れには早くも通算100勝を達成したが、1年ごとの勝ち鞍数は微減していた。そこで4年目の年明けに一念発起。調教に乗る頭数を増やした。

 「色々な厩舎にお願いして、以前より調教に乗せてもらうようにしました」

 それから2年半以上が過ぎた現在でもこの姿勢は変えずにやっている。火曜日から金曜日までは勿論、競馬開催のある土日もトレセンで騎乗してから競馬場へ行く。多い日は8頭前後に乗っていると言う。

 そんな努力が実り、4年目の18年は自身最多の42勝。更に5年目の19年もそれを上回るペースで勝ち星を量産。そんな中で出合ったのがライオンボスだった。5月の新潟競馬場、芝の直線1000メートルが初コンビの舞台だった。

 「1月の中京(知立特別)でスマートシャヒーンという馬に乗り、逃げたんですけど、その時、すごくテンの速い馬がいました。それがライオンボスでした。実際に乗ってみたら、思った以上に速くて、5番枠から楽に(有利な)外をとる事が出来ました」

 更に、最後も驚いたと続ける。

 「1000メートルでこういう競馬をすると終いに止まる馬が多いけど、最後までしっかりと伸びました。自分としては初めての感覚でした」

 条件戦といえ、1000メートル戦で2着に5馬身差の勝利。この時点で重賞を視野に入れたと言う。

ライオンボス(撮影;八田和馬)
ライオンボス(撮影;八田和馬)

重賞騎乗前日にまさかの大怪我

 「1000万条件を勝ったばかりだったけど、和田先生はアイビスサマーダッシュの話をしていました」

 だから、次走・オープンの韋駄天Sの勝利も、陣営にとっては順当な結果だった。こうしてアイビスサマーダッシュでも有力候補となった。直前には追い切りのために美浦トレセンまで訪れ、鮫島自身、初の重賞制覇の手応えを感じた。しかし、好事魔多し。レース前日の7月27日、小倉競馬で騎乗馬に故障が発生して落馬。馬場に叩きつけられた。

 「左腕が変な方向に曲がっているのをみて『明日、乗れないじゃん……』と真っ先に思いました。意識が飛びそうだったけど、悔しさの方が勝っていました」

 応援に来ていた祖母と母の前での事故。骨が皮膚を突き破り、勝負服が血に染まった。左腕と足も骨折。すぐに手術が施された。デビュー後初めての怪我がいきなりの大怪我となってしまった。

「翌日のアイビスサマーダッシュは病院のベッドの上で見ました。ライオンボスが勝ったのを見て、正直、複雑な心境でした」

 そんな鮫島に、和田からすぐに電話が入った。

「『復帰したらまた乗ってもらうから』と仰っていただけました。開放骨折だったので、医者からは『相当、時間がかかる』と言われていたけど、1日も早く戻りたいというモチベーションにつながりました」

復帰後の再コンビを約束してくれた和田正一郎調教師
復帰後の再コンビを約束してくれた和田正一郎調教師

 小学5年で乗馬を始めてから「これだけ長く馬に乗らないのは初めて」というくらい長期にわたる休養を余儀なくされた。しかし、転んでもただでは起きないとばかり、その間に渡欧。10月のフランスで凱旋門賞を観戦した。

 「それほど年齢差のないブドーがヴァルトガイストで勝利するのを目の前で見て、刺激になりました。自分はまだまだ甘いと思ったし、休んでいる場合ではないという気持ちが強くなりました」

凱旋門賞を観戦しにフランスを訪れた際の鮫島
凱旋門賞を観戦しにフランスを訪れた際の鮫島

 帰国すると、10月27日にライオンボスが走る予定だと報告を受けた。そこまでには間に合わせると、リハビリに励んだ。その甲斐もあり、前日の26日、鮫島はターフに戻って来た。

復帰、重賞初制覇、そして改めて挑戦

 復帰後は順調だった。この2月にはカデナで小倉大賞典(G3)を優勝。自身初の重賞制覇を飾った。

 「カデナには直前の中山金杯にも乗せてもらいました。ペースが向かない中、構え過ぎて負けてしまいました。それでも小倉でまた乗せてもらえる事になったので、今度はポジションを取りつつ末脚を使おうと考えて乗りました」

 それがズバリとハマっての優勝劇だった。

 「生まれ育った地といっても過言ではない小倉で、祖母と母の前で勝てたのが嬉しくて、ガッツポーズが出ました」

カデナで小倉大賞典を優勝し、自身初の重賞制覇。直前の中山金杯でのミスを生かす騎乗だった(写真はその中山金杯の時のもの)
カデナで小倉大賞典を優勝し、自身初の重賞制覇。直前の中山金杯でのミスを生かす騎乗だった(写真はその中山金杯の時のもの)

 5月24日にはライオンボスで前年に続いて韋駄天Sを連覇。昨年、病床で唇を噛み締めながら観戦したアイビスサマーダッシュに今週末、挑む。

 「ライオンボスの強さは分かっています。彼の走りが出来れば自然と結果はついてくるはずです。僕自身、重賞を一つ勝てた事で昨年ほど気負わずに臨めるので、しっかりエスコートしたいです。斉藤新、(坂井)瑠星、(松若)風馬らがこのところ重賞を勝っているので、同じ若手ジョッキーとして僕も負けないように頑張ります!!」

 鮫島が勝った時は祖母がLINEでお祝いの連絡をくれる。「いつも見守ってくれていて嬉しいです。良いレースをして喜んでもらいたいです」と言う。今週末のレース後も、そんなお祝いが届く事を願いたい。

画像

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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