織田信長が花押のモデルとして用いた「麒麟」には、どんな意味が込められていたのか
東映70周年を記念し、織田信長と濃姫を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』が近く公開される。信長といえば、「麒麟」をモデルとした花押を用いたことで知られているが、その意味について考えてみよう。
花押とは、書状などの末尾に添えられた署名のことで、平安時代頃から用いられるようになった。そのデザインはさまざまで、実名を図案化したものが主流であるが、動物などをモチーフとしたユニークなものもある。
織田信長の花押は、大まかに4種類に分類できる。微妙な形状の変化を含めて細分すると、14種類になるという。戦国大名が時代を経るに従い、花押を変えることは珍しくない。しかし、信長ほど頻繁に変えた例は、ほかに見られないという。
初期における信長の花押は、足利将軍家の花押と似通っているという。この点は、父の信秀と同じである。天文21年(1552)頃からは、「信長」の文字の草書体を裏返して組み合わせた花押を用いた。この頃、信秀が亡くなったので、それが一つの契機になったと考えられる。
信長は天文24年(1555)2月、弘治4年(1558)1月と花押を変えたが、その間においても花押の微妙なマイナーチェンジを行っていた。信長は花押に強いこだわりがあったようだ。
信長の花押は何度も形状の変化を遂げたが、永禄8年(1565)頃からは、「麒麟」の「麟」の字をデザイン化して使用するようになった。そこには、何か意味があったのであろうか。
麒麟は、古代中国で聖人が出現して良い政治が行われる際、その証として現われる想像上の動物だったという。つまり、信長は「麒麟」という文字の中に、平和を実現するという意味を込めたのかもしれない。では、なぜ永禄8年(1565)がその画期になったのだろうか。
同年5月、ときの室町幕府の将軍・足利義輝は、対立する三好三人衆の攻撃を受けて殺害された。将軍が殺害されるという衝撃的かつ未曾有の出来事に対して、信長の心の中に何らかの変化が生じたのであろう。
つまり、信長は「麒麟」の文字を花押に採用することで、将軍を助けて室町幕府の再興を実現し、天下(京都を中心とした五畿内)における平和の実現を願ったのではないだろうか。信長が将軍の足利義昭を推戴して上洛したのは、3年後のことである。