南北離散家族再会は東京五輪でも、札幌アジア冬季大会でもあった!
朝鮮戦争(1950-53年)で離ればなれとなってしまった韓国と北朝鮮の離散家族が今日から26日まで北朝鮮の金剛山にある面会所で再会を果たす。朝鮮戦争停戦日(53年7月)から数えると実に65年ぶりの肉親再会となる。
朝鮮戦争で引き離され、生き別れた離散家族の再会が実現したのは朝鮮戦争停戦から32年目の1985年9月、当時韓国は全斗煥軍人政権下にあった。これを機に離散家族再会事業の定例化が期待されたが、熾烈な南北対立の煽りを受け、一回限りの一過性で終わってしまった。
二度目はそれから15年後の2000年8月、平壌を訪問し、金正日総書記を相手に史上初の南北首脳会談を実現させた金大中民主化政権の下で南北双方合わせて200人近くが肉親との再会を果たした。この年からこれまで20数回行われてきたが、1回につき人数はそれぞれ約100人。このため韓国側では申請者の13万人のうち半分以上の7万人が再会を待たずに他界している。
実は、南北離散家族の再会は朝鮮半島で実現する約20年前の1964年、東京オリンピックの時が初めてであった。
東京にまで来て、直前になってボイコットして引き揚げてしまった北朝鮮選手団の中に当時女子400mと800mの世界記録保持者で、金メダル候補とみられていた女子陸上選手(辛金丹)がいたが、娘の存在を知って韓国から来日した父親との双方の関係者にもみくちゃにされながらの短時間の出会いは世界中に南北分断の悲哀を知らしめることとなった。
また、1990年の札幌冬季アジア大会でも北朝鮮のスピードスケート選手(韓ピルファ)が韓国から会いに来た実兄と40年ぶりに再会したが、この再会シーンも体制、イデオロギーが異なっても「血は水よりも濃い」ことをはっきりと内外に見せつけ、世界の人々に感動の涙を誘っていた。
辛親子も韓兄妹もそれが最初で最後となったが、短時間ながらも会えただけまだましで、1985年の初の離散家族再会時は、北朝鮮に住む両親と生き別れとなった韓国の男性(当時54歳)が涙ながらに抱き合う離散家族再会光景をテレビで見ているうちに、父母恋しさの気持ちが高まり「両親に会いたい」と言いながら10分余りも激しく泣いた末、心臓麻痺を起こし、死亡すると言う痛ましい事件も起きていた。
南北離散家族再会事業は南北関係が冷却した李明博保守政権下でも2回開かれているが、2010年10月の再会では北朝鮮側の面会者、97人の中に驚いたことに朝鮮戦争で「戦死した」はずの韓国軍兵士4人が含まれていた。
休戦当時国連軍は韓国軍失踪者の数を8万2千人と推定していたが、北朝鮮側から捕虜として引き渡された韓国軍兵士は約10分の1の8千4百人程度。残りの消息、安否は今もって確認されないままである。
この4人については北朝鮮に送還を求めている韓国側の捕虜名簿(約500人)にもなく、また韓国の家族はとっくに戦死したものと思い、墓まで立て、毎年法事までしていたというからビックリ仰天したことは言うまでもない。春日八郎の歌「お富さん」の「生きていたとはお釈迦様でも知らぬ~」云々の話ではない。
最高齢は90歳の李ジョンヨルさんで、朝鮮戦争当時は30〜33歳。4人の中で一番年下は77歳の李ウォンシクさんで、18~20歳で入隊し、戦場に送られていた。4人はかわいそうなことに休戦から2年後の1955年には韓国政府から「戦死者」として処理されてしまった。それもこれも1953~54年の3度にわたる北朝鮮側との捕虜交換時に送還されなかったためだ。
李ジョンヨルさんは生後100日で生き別れとなった息子、ミングァンさん(61歳)と会った際に「ミングァン、お前のことは一日も忘れたことはない」と涙し、早還暦を過ぎ、白髪の交じった息子を抱いていた。李ウォンシクさんも再会した83歳の姉と弟から「案じ続けていた両親が亡くなった」ことを聞かされ嗚咽していた。
今回、南北は双方とも事前に参加者家族の生死確認を依頼していたが、韓国は北朝鮮から依頼された200人のうち129人(生存122人)について、北朝鮮は韓国が依頼した250人のうち163人(生存122人)についてそれぞれ安否を確認し、その中から今回、韓国側は抽選で93人、北朝鮮側は88人が選ばれているが、韓国側は80代、90歳代と高齢者が多く、体調不良などで参加でない人もいるとのこと。なお、韓国側の最高齢者は101歳の男性で、北朝鮮にいる息子の妻、孫と再会するとのことである。