甲子園で旋風を巻き起こした富山の公立高校に進み、引退後、地元チームの発展ために奮闘する元独立リーガー
学生時代、「男の三惚れ」という言葉を教わった。ゴルフ好きの体育教師からだった。就職を前にした先輩にはなむけの言葉として彼はこう言っていた。
「仕事に惚れ、土地に惚れ、惚れた女と一緒になる。それで男は一生幸せになれる」
その「三惚れ」を生まれ育った富山で実現しようという若者がいる。
地元富山出身の小さな左腕
吉田凌太を最初に見たのはもうずいぶん前のことだ。2016年のゴールデンウィーク。調べてみると「プロ初先発」の試合だった。長野でのビジター戦。一見ボールボーイと見まがうような童顔の小柄な投手が先発のマウンドに立っていたのが非常に印象に残っている。
球速130キロに満たないストレートに「大丈夫かな」という気がしたが、その予想に反し、立ち上がりは味方のエラーなどで2失点を喫したものの、その後はその遅いストレートと100キロ前後の変化球を左腕から丁寧にコーナーに投げ分け、ソロホームランの1点だけに留めた。5回3失点で勝ち星はつかなかったものの、先発投手の役割を十分に果たした。
あの時の童顔のルーキーも今年で25歳。現在はプレーしていた富山GRNサンダーバーズの裏方としてチームを支えている。
身長165センチという小柄な左腕投手は、甲子園出場通算7回を誇る地元富山の公立の強豪、新湊高校に進んだ。母校は、初の選抜出場となった1986(昭和61)年にはベスト4まで進み、「新湊旋風」を巻き起こしている。吉田が入学する2年前の2011(平成23)年にも夏の富山県大会を制し、甲子園出場を果たした。しかし、吉田の在学中、高校球児の誰もが夢見る甲子園出場は果たされることはなかった。
小柄ながら小気味いいピッチングをする吉田に、いくつかの大学が興味を示したが、彼は進学に興味を示すことはなかった。
「もともと僕は商業科でしたから。学校全体でも進学者は半分ほど。進学のつもりはありませんでした。でも野球は続けたかったんで、実業団の練習会や企業の試験を受けたんですけど、結局内定はもらえなくて…」
吉田が狙いを定めたのが、独立リーグでのプレーだった。小さな頃からあこがれていたプロ野球(NPB)の世界。そこへの登竜門として位置づけられる独立リーグだが、吉田の場合、NPBは遠い夢で、プレー継続先として選んだ進路という意味合いが強かった。
「もちろん、NPBに、という気持ちはあったですけど。やっぱり遠かったですね」
地元球団・サンダーバーズの球団社長の息子が野球部の先輩という縁で、入団話が進んだ。吉田は、独立リーグ向けの「プロ志望届」を学校に提出した。
4シーズンと決めていた独立リーグでのプレー
独立リーグでのプレーは4年と初めから決めていた。同級生が大学生活を送る間は上を目指してプレーする。それでNPBに行けないようなら、そこで終わり。これが吉田が自らに課したけじめだった。
主力というわけにはいかなかったが、吉田にはルーキーシーズンから出番が与えられた。スピードはあるが、そのポテンシャルをコントロールできず、制球に苦しむピッチャーが多い独立リーグにあって、大きく乱れることのない吉田は使い勝手のよい投手だった。ルーキーシーズンに勝ち星はつくことはなかったが、先発とリリーフで13試合という数字は、独立リーグにあって十分に「戦力」と言えた。
2年目の2017年には、初勝利を含む3勝を挙げ、イニング数も前年より10イニング以上増やし40イニングを越えた。そして3年目、チームはヤクルトのレジェンド、伊藤智仁(現ヤクルト投手コーチ)を監督に迎えたが、新監督はこの小柄な左腕にローテーションを任せた。この年、吉田は先発3番手として1シーズンローテンションを守り、5勝4敗、防御率4.59のキャリアハイの成績を残す。イニング数は80を超えた。翌年、球団は外国人投手を積極的に補強したが、それでも吉田は「助っ投」3人に次ぐイニング数を投げチームの柱として活躍した。
気が付けば4年が経っていた。年齢を考えると独立リーグでプレーし続けることは可能だったが、吉田は自ら決めた「けじめ」を守った。
地元富山の球団に「就職」
引退を決めた後、すぐに球団から声がかかった。球団スタッフとして働かないかと。吉田の誠実さに対する球団の評価だった。吉田には「アシスタントコーチ」の肩書が与えられた。昨年からは広報として球団運営を任されている。
今は試合会場には必ず足を運ぶものの、ユニフォームに袖を通すことはない。ベンチの選手たちとはいくつも年齢は違わない。ゲームを見ていると、投手陣が乱れることもしばしばだ。もどかしくはないのだろうか。
「こうやってフィールドを外から見ると、あの頃の景色とは違いますね。あの時はわからなかったけど、今ならこういうときはこうすればいいのにっていう場面はままあります。現役に戻りたいという気持ちはなくはないんですが、それよりも今は、そういう自分の思いや経験を伝えていきたいな、という気持ちの方が強いですね」
試合のないウィークデーは、球団の主宰する野球アカデミーで週1回、20人ほどの子どもたちに自身の経験を伝えている。地元富山から、自分に続いてサンダーバーズに進む選手が出てきて欲しい。そしてその先には自分が叶えることのできなかったNPBという夢がある。
球団は、昨年限りで吉田がプレーしたルートインBCリーグを離れ、新たに立ち上がった日本海オセアンリーグに移籍した。この新リーグは、「セントラル開催」方式を採用し、週末に全4球団が一箇所に集まり、変則ダブルヘッダーをこなす。自球団のホームでの開催の際は、試合会場設営から撤収まで12時間は球場で試合運営に携わることになる。7月最初の試合会場になった富山市は、折からの熱波で午前中から猛暑に見舞われ、その暑さは第2試合終了時まで止むことはなかった。一日中走り回り試合運営に当たった吉田もさすがに疲労を隠さなかった。
「でも、楽しいですよ」。
そういう吉田の笑顔からは、野球という仕事に惚れ、生まれ育った富山に惚れた男の充実感がにじみ出ていた。
あと足りてないのは女房だけだが、球場で奮闘する吉田の姿を見ていると「三惚れ」の完成はもう少し先になるようだ。
(写真は筆者撮影)