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巨人・カトケン引退。"松坂世代"の高校時代を振り返る

楊順行スポーツライター
98年夏のスコアブック。加藤は和田から2安打した

松坂大輔(現ソフトバンク)の横浜が春夏連覇した1998年、新潟からも新発田農が春夏連続出場した。チームを引っ張ったのが、富樫和大(元日本ハム)と加藤健のバッテリーである。1年の秋から四番を打った加藤は、恵まれた体格からの強打、守っては遠投100メートルを楽に超える強肩で注目された逸材だった。

97年の秋には、主将・四番として県大会の打率・625、12打点で優勝に貢献。北信越大会でも4割超の打率で準優勝し、翌年のセンバツに出場した。夏も打率・478で新潟を制し、甲子園ではともに初戦敗退だったが、新潟勢の春夏連続出場は、なんと40年ぶりのことだった。その高校時代を、加藤に振り返ってもらったことがある。

「2年の秋……新チームというのは、前チームのレギュラーが1人か2人残っても、ほとんどゼロからのスタートじゃないですか。それがあのときは、多くのレギュラーが多く残り、しかも富樫という投の軸がいたので、スタートからある程度水準は高かった。ですから、秋の県大会は楽に勝ち上がりましたね。富樫は、3連投だった北信越の決勝(対敦賀気比、東出輝裕[元広島]らがいた)こそ打たれましたが、公式戦ではほとんど点を取られていないんです」

ただ、新発田農にとって初めてのセンバツは豊田西に初戦負け。前年秋の公式戦打率が36校中トップの加藤自身も「まっすぐとフォークのコンビネーションは新潟にはいないレベル」の相手投手・松下克也に封じられ、4打数ノーヒットに終わっている。

「実はこのセンバツ前、松田(忍)監督(現村上桜ヶ丘)は奥さんの具合がよくなくて、ほとんど練習に出てこなかったんです。最初のうちこそ"監督、なんで練習にこないんだろう"とみんなで話していたんですが、大会直前に話を聞いて……。本番はさすがに監督が指揮を執ったんですが、どこかちぐはぐな感じはありました。初日の第3試合で、あっという間に終わった感じですね」

ただこの初戦敗退で、もう一度甲子園へ……とチームが引き締まった。春の新潟県大会は、松田監督が不在のなか、選手同士でサインを出しながらの戦い。それでもすんなり決勝まで進み、監督が復帰した北信越でもベスト4と力を見せている。

「監督は怖かったですけど、僕らに考えさせてくれる人でね。その存在は大きかった。結局、奥さんは亡くなってしまいましたが、監督が練習に復帰したときには、空気がガラッと変わりました。全員、口には出さなくても、監督のためにも夏も甲子園へ、という思いを強くしたと思います」

「監督のためにも」と一丸に

そのエネルギーにも支えられ、夏の新発田農も順調に県大会を勝ち上がった。決勝までの5試合中4試合がコールド勝ちで、そのうち日本文理との準決勝はなんと、15対3の大勝だ。

「この夏の新潟は、超暑かった記憶があるんですが、体力的にはそれほどしんどくなかった。シバノウでは、オフの間に夏を見すえてみっちりトレーニングしますし、2年の夏には食事合宿をやったんです。朝、昼、晩とそれぞれノルマは丼3杯で、ご飯が足りなくなったらラーメンとか(笑)、とにかくすごい量。みんな必死に食べましたから、これで体がつくられた部分はあると思います。

決勝の相手は新発田中央でした。僕らは先輩たちからつねに、"私立には負けるな"といい聞かされてきていましたが、相手は同じ市内でしょう。やりにくかったのは確か。しかも相手の相川(仁)監督は、シバノウのOBなんですよ。センバツのときも、いろいろとお手伝いくださっていて……2回に1点先制されて少し焦りましたが、富樫がなんとかその1点に抑えてくれて、夏も甲子園出場を果たすわけです」

ただ、ここも相手が悪かった。和田毅(現ソフトバンク)がエースの浜田である。富樫が2〜3点に抑え、打線が3点取れば勝てるんじゃないか、と目論んだが、甘かった。

「とにかく、和田のタマが手もとでピュッとくる。数字以上の速さがあって、ストレートをとらえたと思ったら、一塁側ダグアウト方向にファウルです。完全に振り遅れ。僕自身はそれでも2安打はしましたが、結局2対5ですか。センバツも初日敗退ですし、このキャプテンは結果的に、つくづくクジ運が悪かったですね(笑)」

このときの新発田農まで、春夏通じて初戦6連敗を喫していた新潟勢だが、最近は甲子園での健闘が目立つ。2009年夏に準優勝した日本文理は、14年夏もベスト4まで進出した。

「09年夏に文理が準優勝したときは、"新潟、強いでしょ。先輩の県、弱いっすねぇ"とチーム内でいいふらしていましたよ。自分の母校でもないのに(笑)」

翌99年のプロ入り以来、18年。12年、日本ハムとの日本シリーズでは、負傷した阿部慎之助の穴を埋めて日本一に貢献するなど、チームのピンチを何度も救った。人間性も信頼が厚く、昨季は選手会副会長も務めた。年末、新潟に帰省しスキーに出かけると、18歳のアルバイト学生に声をかけられたという。

「18歳って、僕がプロに入った年齢。18年もやれば、そりゃ年をとりますよね」

また一人、松坂世代がグラウンドを去り、月末にはセンバツの出場校が決定する。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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