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後藤浩輝が亡くなって3年。今も多くのファンがいる彼の魅力が分かるエピソード

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
熱狂的なファンも多くいた現役時代の後藤浩輝騎手。写真はシゲルスダチ騎乗時。

 1999年、アメリカのフロリダ。

 ベテランライターが私のところに近づいてきて、囁くように非難の声をあげた。

 「彼は今、ここに来ていて良い身分なのですか?」

 彼と言って投げた視線の先には1人の騎手がいた。

 後藤浩輝。

 当時、後輩騎手に暴行し、長期の騎乗停止処分中の身であった。そんな後藤をこの時アメリカに誘ったのは私だった。

 一方、そのライターには私自身、大変お世話になっていた。

 板挟みとなり、困ったが、この後、もっと驚かされる事態が待っているとは、当時、知る由もなかった。

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師匠との確執、そして重賞制覇の裏にあったエピソード

 後藤が見習い騎手として美浦トレセンに来た頃、私はトラックマンをやっていた。後藤の所属した伊藤正徳厩舎は私の担当する厩舎だったこともあり、すぐに仲良くなった。

 彼がデビューしたのは92年。何年か後、彼は師匠に対し不満の声を漏らすようになった。

 「乗せてくれるのは調教ばかりで競馬に行くと別の騎手になってしまう。レースでも乗せてくれれば絶対にやれる自信はあるのに……」

 若さゆえの何の根拠も裏付けもない自信を彼は真剣な眼差しで口にした。

 先々まで考えず勢いに任せて行動してしまうような面のある彼を、師匠の伊藤はじっくり育てて行こうとしたのだが、当の本人にその親心はうまく伝わっていなかったのだ。

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 デビュー3年目の94年11月20日にはこんなことがあった。

 この日、後藤は福島競馬場で騎乗。とはいえメインの福島記念に騎乗馬はいなかった。

 一方、同じ日に京都競馬場ではG1のマイルチャンピオンシップが行われていた。ここには自厩舎のホッカイセレスが出走し、4番人気の支持を受けていた。

 ホッカイセレスは本格化する前、後藤のお手馬だった。この当時も調教では騎乗していたが、レースにいけばベテランや外国人が手綱をとった。

 忸怩たる思いで福島にいた後藤に朗報が舞い込む。本来、騎乗予定のなかったはずの福島記念だが、騎乗予定の騎手が当日、落馬負傷をしたため急きょ乗り替わり。後藤が指名されたのだ。

 しかし、これが単なる幸運ではなかったことを、私は後に本人から耳にした。

 「先輩騎手が乗れなくなって、調教師が騎手を探しているという話を小耳に挟んだんです。ハンデが50キロの馬だったので、なかなか乗れる人が見つからなかったようです。

 僕なら50キロでも乗れる。ただ、その調教師とはそれまで話をしたこともなかったので、用も無いのに検量室へ行き、調教師の目の前を右へ左へウロウロしました」

 思惑通り声がかかった。そして、騎乗することになったシルクグレイッシュで後藤は自身初めてとなる重賞制覇を飾ってみせた。ホッカイセレスに乗れなかった悔しさを少しだけ晴らしてみせたのだ。

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騎乗停止、そして驚くべき報告

 95年、後藤はついに師匠の元を飛び出す。翌96年には単身アメリカへ武者修行に渡る。かの地で7勝した後、帰国すると、一気にブレイク。96年には6しかなかった勝ち星を翌97年に46まで増やすと、98年には63勝を挙げてみせた。

アメリカを皮切りにフランス、イギリスなど、海外へも積極的に挑戦した
アメリカを皮切りにフランス、イギリスなど、海外へも積極的に挑戦した

 そんな彼が冒頭に記した事件を起こしたのが99年だった。不祥事に世間が一斉に彼を叩く中、真っ先に盾となるべく立ち上がったのは師匠の伊藤だった。聞くところによると、後輩騎手とその騎手の師匠、そしてJRAなど関係各所に頭を下げて回ったそうだ。

 結局、4カ月の騎乗停止処分となった後藤を、私はアメリカのブリーダーズC観戦に誘った。休養した理由が理由だっただけに、当初は逡巡したが、最終的には同行。往路ではニューヨークに寄って遊んだり、飛行機では後藤だけ子供用の機内食が配られるなど、珍道中の末、フロリダでブリーダーズCを観戦した。

 後藤から驚くべき連絡が入ったのは帰国し、1週間ほど経ってからだった。彼は言った。

 「今度、Hさんと一杯やることになったんですけど、一緒にどうですか?」

 一瞬、耳を疑った。後藤が名を挙げた“Hさん”こそ、冒頭で記した“騎乗停止中の渡米を非難した”ベテランライターなのだ。当初はそうだったが、いざ後藤と話すと、あっという間に懇意になっていた。帰国後には飲みに行く約束を果たすまでになっていたのである。

 あの“板挟み”の状況になって以降、双方に気を使い、現地でなるべく2人が顔を合わせない動線を確保していたつもりだったのだが、何を無駄な努力をしていたのか……。驚かさると同時に、これが“後藤の魅力”なのだと思ったものだ。

誰もが彼の魅力に魅せられた

 帰国後の後藤は年間100勝を超す活躍を見せるまでになり、伊藤正徳厩舎の馬にも普通に騎乗するようになった。伊藤もまた“後藤の魅力”に魅せられた男だったわけだ。

 かく言う私もそんな1人だった。正直、何度か衝突したこともあった。しかし、それはインタビュアーとインタビュイーとしての関係ではなく、友達同士だからこそ起きる摩擦ゆえであった。だから、いつも最終的にはまた飲みに行っていた。

 その週も会う約束をしていた。ところが珍しく彼から「延期して欲しい」との連絡が入った。珍しくというか、記憶にある限り初めてのことだった。そして、それが彼との最後の会話になってしまった。

 その数日後の2月27日、彼は唐突に逝ってしまった。先に天に召されたH氏は、再び後藤に魅せられているかもしれないが、この活字を目に出来る我々は、あの魅力を目の当たりすることは出来ない。決して優等生ではなかったが、企画力と行動力は人一倍あった。そして、何よりも彼の周囲にはいつも笑顔があった。あれから3年経った現在でも、彼は多くの人の心の中であの人懐こい笑顔を見せていることだろう。

2010年、イギリス・ニューマーケットで撮影。
2010年、イギリス・ニューマーケットで撮影。

(文中敬称略、写真提供=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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