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さらばチェルシー、ロベルト・ディ・マッテオの履歴書『私にとってサッカーとはチャンスだ』

浅野祐介ウォーカープラス編集長
昨シーズン、チェルシーを欧州制覇に導いたディ・マッテオ

「ここ最近の試合内容と成績は不十分。クラブの軌道を修正するためにチームを変える必要があると判断した。チームをチャンピオンズリーグ優勝、7度目のFAカップ制覇に導いてくれたロベルトには感謝している」

11月21日、チェルシーがロベルト・ディ・マッテオ監督の解任を発表しました。確かに、リーグ戦でつまずきつつある中でのユヴェントス戦完敗(0−3)と、この敗戦に伴うチャンピオンズリーグのグループリーグ敗退危機は大きなマイナス要素かもしれませんが、クラブ・ワールドカップを目前に控えたタイミングでの解任発表には正直、驚きました。

チェルシー、ディ・マッテオ監督を解任

昨シーズン、暫定監督の立場でチェルシーをクラブ史上初の欧州王者に導いたロベルト・ディ・マッテオ。かつて『ワールドサッカーキング』(No.216号)で取り上げた英国誌『FourFourTwo』の記事から、彼が自身の現役時代を振り返ったインタビューを紹介しようと思います。その言葉からは、ロベルト・ディ・マッテオという人物の誠実さが伝わってきます。

■成功を収めたなんて思ったことがない

自分がプロサッカー選手としてやっていけると思ったのは、1993年にアーラウでスイスリーグ優勝を成し遂げて、シーズンMVPを受賞した時だった。23歳だったよ。アーラウはスイスでは古豪なんだけど、知らない人のほうが多いだろうね。1910年代に2度の優勝経験があり、私たちが優勝したのはそれ以来だった。

当時は、「もっとうまくなりたい」、「もっと勝ちたい」、「もっと大きな成功を手にしたい」というようなことばかりを考えていた。勝利に満足することはあっても、“満腹感”を覚えたことは一度もなかったよ。だから、現役生活はずっと冒険と挑戦の連続で、「成功を収めた!」なんて思ったことはほとんどなかった。でも、今こうして思い出してみると、あのシーズンは良いことばかりが重なっていたと思う。1914年以来果たせなかった優勝という目標を、自分たちが達成したんだ。チームだけじゃなく、街全体が勝利を喜んでいたよ。

故郷シャフハウゼンのユースチームでプレーを始め、チューリッヒを経てアーラウに来た。中盤ならどこでもこなす選手だったけど、チューリッヒ時代までの私はセンターバックの位置でプレーすることが多かった。もっとも、当時流行のリベロとして攻撃の組み立てもやっていたから、“守備の選手”というイメージではなかったと思う。

この話は今まで誰にもしていなかったけど、実はシャフハウゼンのユースチームに入団する前に、見習いとして肉屋に就職したことがある。16歳の頃の話だし、3週間しか続かなかったけどね。理由は、これからの人生すべてをこの仕事に捧げる自分がイメージできなかったから。正式な見習いになる前にも同じ店でアルバイトをしていたから、ナイフの使い方はマスターしていた。父は私が肉屋になることを望んでいたようだ。サッカー選手を目指すよりも勉強をして、故郷で手に職をつけるべきだと考えたんだろうね。仕事を辞める時は父から店主に言ってもらったんだけど、その時は父に恥をかかせてしまったようで、申し訳ないことをしたと思ったよ。

アーラウでの素晴らしい1年を経て、ラツィオに移籍した。当時のセリエAは世界中のスター選手が集まるリーグだった。しかし、最初はそれ以上に街の大きさに衝撃を受けたよ。スイスの小さな田舎町で生まれ育った少年が、いきなり永遠の都、ローマで暮らし始めたんだから無理もない。

当時の会長、セルジョ・クラニョッティは勝利に貪欲で、大きな野心を持っていた。結局、私がいる間にビッグタイトルを手にすることはなかったけど、チームが年々強くなっているという手応えは十分にあった。クラニョッティ会長と一緒に過ごしたラツィオでの時間は本当に刺激的だったよ。

そしてチェルシーへ移籍した。ロンドンはローマより更に大都会だった。振り返ってみると、私はキャリアを通じて幸せな時間を過ごすことができた。環境と仲間に恵まれたと思うよ。

■引退の無念さは今でも時々思い出す

キャリアを通じて嫌なことはほとんどなかった。勝っても負けても「次は勝つ」と見定めているような男だったから、手痛い敗北というのも別段思い出せない。

もっとも、ケガだけは別だったね。一番の挫折を味わったのは、93ー94シーズンの終盤に右ひじを骨折したことだ。イタリア代表に正式に加わったばかりだったのに、あのケガでW杯出場の夢が絶たれたんだ。あの時は、打ちのめされた気分でアメリカW杯をテレビ観戦したものだよ。イタリア代表は苦しみながらも決勝まで勝ち上がった。最後はロベルト・バッジョがPKを外して勝利を逃してしまったけどね。

ケガの思い出はもう一つある。現役引退を決断せざるを得なくなった大ケガのことだ。チェルシー時代、ザンクト・ガレンとの試合で足を複雑骨折してしまった。生まれ育ったスイスでUEFAカップの試合を戦っているところだった。当時の私はまだ30歳だったし、現役引退するつもりなんてこれっぽっちもなかった。だが、復帰を目指して必死に頑張ったが、ピッチに戻ることはできなかった。

これはスイス人にしか分からないだろうけど、ザンクト・ガレンはアーラウの宿敵なんだ。因縁めいたものを感じたよ。あのケガがなければ、もう少し長くキャリアを続けられたはずなんだけどね。あの無念さは今でも時々思い出すよ。

成功を実感したことがほとんどないと言ったけど、キャリアの中で自分自身を最も誇らしく感じた瞬間はある。もちろん、94年11月にクロアチア戦でイタリア代表デビューを果たした時だ。

イタリアは両親の母国だったから、手続き上は問題なかった。ただ、私はスイスで生まれ育った人間だ。マーリア・アッズーラ(イタリア代表の青いユニフォーム)を着てプレーする資格があるのかどうか、長く悩んだものだよ。もっとも、最初の決断は16歳の時だった。スイス代表から練習参加するよう求められたんだが、行かなかった。16歳の少年にとってはひどく複雑な問題で、どんな答えを出せばいいのか分からなかったんだ。

当時の代表監督だったサッキは、私に考える時間と様々なヒントを与えてくれた。コヴェルチャーノ(代表のトレーニングセンター)に招待してもらい、練習を見学したり、コーチたちの話を聞いたりしたよ。そして、ラツィオでの活躍が認められ、94年のW杯直前に正式に代表招集のオファーを受けた。私はもう迷わなかった。イタリア5400万人の代表としてプレーしたいという意欲が、胸の中でキラキラと輝いていたんだ。ところが、そこで右ひじを骨折。本当にツイていないと思った。私が代表デビューを果たしたのはその半年後だ。挫折の後だっただけに、喜びは大きかったよ。

■私の人生の中心にはサッカーがあった

現役時代の私にとってサッカーとは何だったのだろうか。一言で表現するなら「チャンス」だね。つまり、あらゆる機会はサッカーをすることで手に入った。スイスでずっと暮らしていたら、きっと出会うこともなかった素晴らしい人たちと、日々一緒に働き、感動を味わうことができた。プロサッカー選手になろうと決めた時点で、家族や友達と離れ離れになる寂しさを経験したけど、得たものはその何倍も大きかったと思う。いずれにしても、幼い頃から私の人生の中心にはサッカーがあったということだね。

サッカー界には様々な問題があるけど、それぞれが自分の方法論で付き合っていくしかない。私が一番解決したいと思う問題は、代理人のことだ。今のサッカー界では代理人の権力が大きすぎる。もちろん、有能な代理人はたくさんいて、彼らはあらゆる方法で選手をサポートしてくれている。でも、そうでない者も多い。クラブとサッカー選手の間を取り持ち、金だけを持っていこうとするやからも少なくないんだ。我々は彼らとの関係をもう一度考え直すべきだと思う。

もしも願いが一つかなうなら……コンチェッタの目に光を与えてあげたい。私の姉だ。若くして網膜の病気を患ったために、18歳で視力を失ったんだ。私は幼い頃からずっと、姉の目が治るよう神に祈っている。私にとって家族はかけがえのない存在だ。妻や子供にはいつも伝えているが、家族は私のすべてなんだ。

前任のアンドレ・ヴィラス・ボアス(現トッテナム監督)がシーズン半ばで解任された後、内部昇格でチェルシーの指揮を執ることになったディ・マッテオ。まだ42歳、その風貌を含め、監督としては明らかに若いものの、不幸なケガで若くして現役引退を余儀なくされた彼は、監督になるための下積みを既に10年も経験していました。意欲的な改革が失敗した後の“敗戦処理”だったはずの青年監督は、チーム内の混乱を速やかに収束させ、クラブとサポーターの悲願であるチャンピオンズリーグ制覇を達成。来日を楽しみにしていたサッカー関係者の一人としては残念な解任劇となりましたが、「サッカーとはチャンス」という本人の言葉どおり、この経験を糧に、遠からずどこかを率いる姿を期待したいと思います。

ウォーカープラス編集長

編集者/KKベストセラーズで『Street JACK』などファッション誌の編集者として活動し、その後、株式会社フロムワンで雑誌『ワールドサッカーキング』、Webメディア『サッカーキング』 編集長を務めた。現在は株式会社KADOKAWAで『ウォーカープラス』編集長を担当。2022年3月にスタートした無料のプレスリリース配信サービス「PressWalker」では、メディアの観点から全プレスリリースに目を通し、編集記事化の監修も担当。

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