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なぜ最上義光は、伊達政宗よりも遅れて小田原に参陣したのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
最上義光。(写真:イメージマート)

 ビジネスでもプライベートでも、特段の理由がないのに遅れるのは感心しない。天正18年(1590)の小田原征伐の際、最上義光は伊達政宗よりも遅れて小田原に参陣した。その理由を考えてみよう。

 天正10年(1582)6月の本能寺の変以降、豊臣秀吉は天下統一を成し遂げるため、安芸毛利氏、土佐長宗我部氏、薩摩島津氏を次々と屈服させた。残る強敵は、関東に覇を唱えた小田原の北条氏を残すのみとなったのである。

 当初、秀吉は北条氏と敵対関係にあったわけではなかったが、天正17年(1589)の名胡桃城事件は、秀吉の政策基調である惣無事に違反していた。北条氏は秀吉の裁定に従わず、真田領の名胡桃城を奪取したのだ。

 その後も秀吉は北条氏と交渉を続けたが決裂し、北条氏を討つために小田原征伐を敢行することになったのである。同じ頃、東北では伊達政宗と最上義光が対立していた。東北は政治情勢が混沌としていたうえに、深刻な状況にあったのだ。

 東北の諸大名にも、もちろん秀吉から小田原に参陣するよう要請が届いた。東北の諸大名の対応は、実に早かった。秋田氏、小野寺氏などは早々に小田原に参陣しており、大宝寺氏は上洛した際に出羽国主に任じられ、従五位に叙せられていた。

 秋田氏らの素早い動きに対して、遅れをとったのが政宗と義光である。政宗の場合は、北条氏と同盟関係にあったので、北条氏に与するべきか、秀吉に味方すべきか迷っていたという。

 義光の場合は、天正18年(1590)5月18日に父・義守が亡くなるという不幸に見舞われていた。義光は葬儀などのため、まったく身動きが取れなかったのである。

 義光の窮地を救ったのは、徳川家康だった。義光は家康を介して秀吉とコンタクトを取り、何とか本領を安堵されたのである。秀吉は事情を知っていたので、処分を科すことはなかった。義光は周到な手回しにより、滅亡の危機を逃れたのである。

 義光は何とか難を逃れたが、小田原に参陣せず改易された東北の諸大名は多い。今でもそうだが、遅れる理由があれば、できるかぎり連絡を早めにとって、事情を話すのが肝要なようだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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