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【光る君へ】左遷後の藤原伊周・隆家は、いったいどうなってしまったのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所の長い西築地塀。(写真:イメージマート)

 藤原伊周・隆家は、長徳の変で左遷されたが、のちに許されて帰京した。2人は大変強い存在感を示していたが、以後どうなったのだろうか。その点について、考えることにしよう。

 長徳元年(995)、藤原道隆・道兼兄弟が相次いで亡くなると、後継者の座を伊周(道隆の子)と道長(道隆の弟)が争った。その結果、道長が一条天皇の内覧を務めることになったのである。

 翌年、伊周・隆家兄弟の従者は、花山法皇に矢を放ち、衣の袖を射抜くという事件を起こした。また、一条天皇の母の詮子を呪詛したともいわれている。この一報を聞いた一条天皇は激怒し、2人を左遷したのである。

 こうして、内大臣だった伊周を大宰権帥に、中納言だった隆家を出雲権守に、それぞれ降格する宣旨が下された。しかし、伊周の配所は播磨国、隆家の配所は但馬国にそれぞれとどめられた。

 2人が処分された前から、詮子は病気に苦しめられていた。朝廷では医者に診療させるほか、平癒を願って加持祈禱などを執り行わせたが、一向に効き目がなかった。

 当時の人々は怨霊を恐れており、死霊だけでなく、生霊(この場合は伊周・隆家)も同じだった。詮子が病で苦しんでいるのは、伊周・隆家の生霊の影響もあるのではないかと考えられた。

 そこで、一条天皇は長徳3年(997)4月に大赦令を発布し、伊周・隆家兄弟の罪を許したのである。その結果、伊周は帰京を許され、同年12月に京都に戻ってきた。弟の隆家は、翌年4月に帰京したのである。

 かつて伊周は内大臣として権勢を振るったが、元の官職に戻ることはなく、自邸で引き籠もる生活を余儀なくされた。弟の隆家は中納言だったが、のちに兵部卿という地位が与えられたにすぎなかった。

 長保3年(1001)閏12月、詮子は病気に苦しめられており、伊周をもとの正三位に復位させるよう、一条天皇に要請したという。しかし、伊周が従二位に叙せられたのは、長保5年(1003)9月のことだった。

 弟の隆家は、兄に先んじて長保4年(1002)に権中納言に復したという。とはいえ、2人の全盛期が復活するわけもなく、以後は道長の黄金時代を指をくわえて見るより、ほかはなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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